ふくよかな死体、豊かな妄想

Posted at 06/06/11

昨日は午前中から仕事。ペースがつかみにくかったが、とりあえず午後7時半に終了。ラーメンとギョーザを食べて8時24分の特急で帰京。信州は寒かったが、東京は、新宿駅の西口の方にシチズン提供の時計と温度計があるのだが、それが午後10時を過ぎているというのに22℃を指していて仰天した。確かに暑い。

ダッシュして中央線快速に乗り、東西線に乗り継ぐといつもより10分ほど早く地元の駅へ。少し買い物して家に着くと普段直で帰った時間。少し得をした気がしないでもない。

特急の中では『文学界7月号』を読んでいたのだが、これはいい、というのは特になかったのだが春日武彦「無意味なものと不気味なもの」の中で車谷長吉『忌中』という小説が取り上げられていて、これがちょっと印象に残った。

文学界 2006年 07月号 [雑誌]

文藝春秋

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『忌中』は60代の主人公が妻の介護に疲れて殺し、自分も自殺を図るが死に切れず、その死体を茶箱に詰めてときどきその中をのぞいてはいわば愛を確認し、結局は自分も自殺する、その過程を書いているのだが、この茶箱の中の死体が腐っていくさまの描写が紹介されていて、これがまあなんだか耐えられないような感じである。

忌中

文藝春秋

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この手の描写といえば思い出すのは谷崎潤一郎『少将滋幹の母』であるが、いずれも愛ゆえの男の迷い、みたいなものを描いている。こちらも最初に読んだときにはほとんど正視に耐えなかったが、今思い出してみると不思議なエロチシズムがある。

少将滋幹の母

中央公論新社

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車谷長吉という人は変人扱いされているが、日本の近代文学の伝統をある意味正面から受け継いでいる人で、こういうところでこういう形で谷崎と直結しているというのは面白いなと思った。これだけの説明ではわからないかもしれないが、いずれの印象も寝て起きて考えてみると、とても「ふくよか」なものなのである。死の豊穣さとでもいうか。いやもちろん春日が論評している通り、それはある意味異常にアンリアルであって、死体との同居生活という異常な事態に陥ると人はそれを何とか見ないで済ませたいと思うものらしいのは犯罪報道等を見ていればすぐわかるし、大体そんな目には絶対遭いたくないと普通の人は思うだろう。私も勘弁してもらいたい。

だからつまり車谷にしても谷崎にしても、死体の腐っていくさまを見る、というのは明らかに妄想なのである。だから「死の豊穣さ」というよりは「詩の豊穣さ」なのである。谷崎は仏教における無常を悟るための行の中でそうした行為を男にさせているのだが、その有様が小倉遊亀の絵とあいまってどうもふくよかなものに見えてくる。こういうところに実は日本文学の財産があるのではないか、という気がしてくる。

文学の力というのはある意味、よく考えて見たら実にアンリアルな状況なり人物なりを、妄想の力でリアルな存在にもってくるところにあるのではないかと思う。「強く思い浮かべる」ことが大事だというようなことを志賀直哉が言っていたが、日本人は日本人が強く思い浮かべられることを思い浮かべて作品を書けば、それが世界性を持つことにつながるのではないかという気がする。それがサブカル的な想像力よりは文学の形を取った方が今のところは世界に受け入れられやすいとも思う。やっぱ日本文学は豊かだ。詰まらんのも多いが。

今日は東京は雨。でも明るい。これからどうなるのか。

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