『わたしを離さないで』:「愛し合うことに真剣な人たち」と「妊娠しないセックス」

Posted at 06/05/19

昨日は雨は上がったのだが、今朝はまた降っている。夜の仕事中は、寒くてガスストーブをつけることが多い。

一昨日の党首討論で小沢一郎が教育問題の根本は制度上何の権限もない文部省が絶大な権限を握っている事で(制度上の権限は自治体の教育委員会にあるわけだが、現実問題として機能していない)、教育が悪くなっても誰も責任を取らないことにある、ということを言っていたが、それはまったくそのとおりだと思う。教育が荒れたら大臣の首が飛ぶ、くらいのことが少なくとも起こらなければならない。アメリカ的な教育委員会制度が戦後GHQによって導入されたがそれが完全に骨抜きになって、無責任体制になってしまった。そこの制度を抜本的に変えなければ、公教育が改善されるということは難しいだろう、というのはそのとおりだと思う。ただ、そうなると教育を主導する権利を有するのは国家か社会か親かという根本的なところから議論する必要が出てくる。一般的には親だという意見が(小泉首相も言っていたが)多いだろうが、では無責任な親に育てられている子どもの場合は希望がないということになる。国家だ、というと「戦前の復活」というお題目で騒ぐ人が多かろうし、確かに中国のように独裁的な政党が政権を握ったときの危険は大きい。また社会ということになると教育委員の権限拡大と公選制ということになるが、これも異常な信念の持ち主が選出されて大変な事になる可能性というのは常に否定できない。

そういう面倒があるからこのあたりの議論は避けられてきたのではないかと思うが、少なくともそれを避けてきたことによる「つけ」に現在は直面しているということだろうから、少なくともどうにかしなければならないとは思う。現実的には国家が「まし」なんじゃないかと私などは思うが、なかなか悩ましい問題である事は事実だろう。

ただ、どこからかの時点からは最終的には自分で自分を教育する、自分で学習手段や指導者を選択して自己教育に取り組む、という人間になるように教育プロセスは構想されるべきではないかなあと思う。まあそこまですべての人間が到達できるとは限らないし、これは学力だけではなく本人の自覚の問題が大きいのだが。

思い出したようにドイツ語をやってみているが、大学の第二外国語でやったときには飲み込めなかった「文中や節に於ける動詞の位置」がだいぶ分ってきている。それだけ当時は勉強しなかったし理解力も不足していたんだろうなあと思う。

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を一気に読了。物語世界に入ってしまうとあとは速い、というのがイシグロの作品を読むときの私の傾向なのだが、『日の名残り』や『私たちが孤児だったころ』に比べてなかなかエンジンがかからなかったのは、それだけ物語世界のフィクション性が高く、自分の読み手としての視線のようなものがなかなか定まらなかった、ということにあるのだろう。子どものころの集団生活、というのは私自身も経験しているが、イギリス人の子供たちのやり取りというのはまたわたしの経験とは微妙に違って「感じ」がわかりにくいところが多い。主人公が成長していくにつれてだんだんその「感じ」が分りやすくなってきた、ということなのではないかと思う。

この物語の示唆するところは実に溢れんばかりのものがある。フィクションとしての完成度が高いからだろうか、あれもこれもそれもどれもこの物語には含まれている、という感じがしてくる。

しかしその中で私自身が一番感じたのは、とこういう書き方をするのはおそらく人によってこの物語から受け取るものはきっと驚くほど違うだろうという気がするからなのだが、「この人たち」、といっても作中の登場人物だけでなく読み手である西欧文明の人たちすべてを含めての「この人たち」なのだが、「愛し合う」ということについて「私たち」よりずっと真剣に考えている、ということだった。「私たち」といっても私が思うだけで、日本人でも私などに比べれば遥かに「愛し合う」ということについて真剣に考えている人たちがたくさんいると思う。が少なくとも私が意識する日本文明の住人よりは、ということである。

「彼ら」(これは主人公たちという意味だが)は物語の設定上、子孫を残す事が出来ない。しかしセックスをする事は認められていて、性衝動なども物語の進行上非常に大きな意味を持っている。好きでもない人とセックスをしてしまう衝動とか、愛し合う人とセックスをしても妊娠・出産という果実を結ばないこととかもかなり重要で、題名にすら関係してくる。そして彼らはそう長生きできないことも理解している。その中で人と人が愛し合うということはいったいどういうことか。

彼らは、「愛し合う」ということをある種の課せられた義務、ある宗教的な、あるいは崇高な行為として、また違う角度から見れば峻厳な刑罰として科せられているように見える。それは、登場人物たちだけでなく、西欧文明の人たち一般にそういう「愛に対する強迫観念」があるように思われる、ということである。この世で愛が一番大切だ、という人の言葉には、何かそういうある種うつろなものを感じる事が多かった(私が最初に感じたのはビートルズの「愛こそはすべて」だった気がする。まだ子どものころだが)。

少女性愛(いわゆるロリコン)やSM行為などに対しても、彼らはわれわれよりも考えられないくらい真剣で、そこに愛があるはずだというある種の絶望的な宝捜しをしているように思われる。そのあたりにはわれわれには感知することの出来ない深淵があるのではないかという気がする。

私が思うのは、やはり神を信じる事が出来なくなった彼らが、その代償に求めたのが「愛」だったのではないかということだ。「愛」は人間同士の間に成立するものだから、「神」に比べれば存在・非存在を感知するのはより容易である。しかし人間同士の間に成立するものであるからこそ、不条理なものでもある。

私などが思うのは、やはりそれは人間が「自然」から切り離された病理現象のひとつなのではないかということだ。ただこのあたりのところはそんなに単純に整理してしまっても面白くないので、もっといろいろな事を考えたい。われわれ日本人がもっと近代人であるためには、「愛」についてもっと考えた方がベターであると思う。近代人でなくてもいいという気ももちろんするのだが。

その他のことをもう少しだけ書くと、ひとつ大きいのは差別の問題だろう。この話のテーマは言い換えれば一つの新たなる被差別カーストがつくられる危険性への警鐘といえなくもない。であるからこそ、逆に現在もなお残る差別や、特に根源的であるがゆえに深刻なインドのカーストの問題も照射する。またロボットやアンドロイドと人間は共存しうるかというSF的なテーマにも近く、『仮面ライダー』や「新造人間キャシャーン」で扱われているものが集団的に発生したらどうなるか、というアイデアの展開でもある。そういうことで言えばひさうちみちおの題名は忘れたが「ロボットと人間の結婚」とか「カバの人」の出てくる漫画などを思い起こさせた。

そういう差別された階級を「救済」するためにはどうしたら言いか、という深刻な問題もまた描かれ、イギリスにおける理想主義的人道主義の後退、すなわちサッチャリズムに対する批判にもなっている。しかし、その「理想主義的人道主義」に対するかなり強い批判も作中には含まれている。

このように、かなり幅広く深刻な問題がこの作では提起されているわけで、ものすごい作品である事は事実である。こんな物語を書く人がいるんだということだけでも相当驚くが、なんというか単純に「傑作」だとは言いきれない気がして仕方がない。また数年後、数十年後に読んだらもっと落ち着いた評価もできるのだろうが、今のところは「生もの」である。しかし、おそらく読まれるべき作品であることは確かだろうと思う。


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