小説の読み方/世界の「和解」の可能性
Posted at 06/05/17
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昨日帰郷。特急に持ち込んだ本は3冊。志賀直哉『小僧の神様・城の崎にて』は「佐々木の場合」「城の崎にて」「好人物の夫婦」と読んで「赤西蠣太」を読んでいる最中。以前はこういう短編を読んでいても何が言いたいんだか全然わからないと思いすぐに放り出してしまったのだが、今は面白く読んでいる。いったい何が面白いのか、と改めて考えてみると、結局「小説の読み方」が分った、ということなんだろうと思う。
これは若いころレンブラントやバロックの絵画のどこがいいんだか分らない、と思っていたころに、ロートレックの「マルセル」を見て、画家の一筆が粗っぽいボール紙(?)の上に女性の肌を再現しているそのタッチに仰天し、心底感動したと言う経験から「絵の見方」を知った、という経験と同じなのだろう。池大雅が一筆で笹の葉を描く神業とか、そういうものを知るのが「絵を見る」ということであるように、舞台上の玉三郎が女を演じることもそうだし、「描く」「演じる」のと同様「書く」ということの秘密のようなものに分け入る経験をもたなければ、小説を読むということは出来ないのだなと思う。それはこのように日記をつづったり、論文を書いたりするのとはまったく別の経験で、創作とか描写と言うものについて考えたり実行したりし、読みながらその作家の「タッチ」を感じ、その「タッチ」が何を言おうとしているのか――時にそれは「作家」が書こうとしていることと違うことであったりする――を感じたりする、ことが小説の読み方、なのだと思う。
考えてみたら当たり前のことだと言うことになるかもしれないが、多分私は長い間文章の記述に「客観性」や「正確性」、つまり科学の表現手段としての役割のみを見るように無意識にしていて、文章本来の持つ魅力を感じることをシャットアウトしていたのだろうと思う。ダ・ヴィンチのスケッチを見て科学的な意味のみを求めるようなもので、それは表現の豊穣さと言う点から見ればいかにも残念なことである。大体最近、ちょっとした小説以外の文章を見ても、書き手のちょっとした工夫や仕掛け、ちょっとこれ面白いでしょ、という意図のようなものをよく感じるようになってきた。そういうのを文章に対する感性が上がる、というのであれば嬉しいことだ。逆にそうなるとそういうもののない文章を見下す意識のようなものも出て来て、今まで平気で読んでいた文章も魅力のなさが意識されてきたりすることもまたある。また逆にいろいろな事業?の成功に賭ける飽くなき情熱、のような昔はあまり理解できなかったこともそれなりに感じられるようになってきたし、まあ人間は実にさまざまなことに情熱を感じるのだなといろいろ面白い。
イシグロ『わたしを離さないで』。ちょっと渋滞気味。現在第6章、80ページのところ。子どものころの友人とのやり取り。その詳細な感情の揺れの記述は今まであまり読んだことがないかもしれない。子供のころの回想にありがちな「甘さ」がなく、子どもの世界は子どもの世界なりに「キビシイ」、ということがよく描かれている。こういうものをこのように描けると言うことは凄いことだと思う。
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石戸谷結子『マエストロに乾杯』。ムーティ、小沢、シノーポリ、クレーメル、ポゴレリッチ、アシュケナージ、ブーニン、マゼール、メータ、ドミンゴ、アバドと読んで今はホセ・カレーラスのところが読みかけなのだが、3大テノールのもう一人、パヴァロッティのインタビューがないのがちょっと残念。
読んでいると、特に小沢など、コンコルドで演奏旅行に飛び回るような(今はコンコルドはとんでないが)、「絵に描いたようなコスモポリタン」なのだが、こうして並べて読んでみるとそれぞれの出身と言うものがその背後に影絵のように立ち上がってくる感じがする。音楽家など、優れた芸術家の魅力の最大のものの一つがそのように軽々と国境を越えるコスモポリタンであることなんだな、ということははじめて意識したが、(何しろわたしは意識的に土俗的であろうというところが強いんだなと言うことも反対に意識してしまうが)その芸術の根と言うか、芸術家個人の生が強くその祖国と結び付けられている、その紐帯の弱い人は逆に言えばマエストロと言われるような芸術家たりえない、ということもまた強く感じた。
コスモポリタンでありつつある国の国民である、というような意識はヨーロッパでは18世紀くらいから培われてきていると思うが、日本ではそういうものはなかなか育っていかないなと思う。外国文化に同化することのみに急な軽薄な根無し草であるか、ナショナルな土俗性に依拠して他国の文化を毛嫌いするかのどちらかになりがちだが、政治とか戦略と言うものはともかく、芸術的なものはナショナルなものとコスモポリタン的な意識を両立させる通路になる可能性のあるわずかなものの一つなんだろうなと思う。「世界中で演奏すること」はすなわち、「世界中で共感されるものが有り得る」ということの証明をし続ける、という意味を持つわけで、彼らの存在そのものが世界のコンコルディアの可能性への希望そのものだということになる。日本文化を発信するのは日本のためだけでなく、世界のコンコルディアに日本が少しでも貢献すると言う大きな意味を持つわけで、政府はまあ尻の穴の小さいことを言わず、太っ腹で文化に資するようなことを実行していってもらいたいものだと思う。
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