個人サイトとブログとテキスト庵の試み

Posted at 05/10/02

個人サイト云々についての議論がテキスト庵の一部であるようで、懐かしい感じがした。私は個人サイトというものはほとんど閉じてしまっているので昔ながらの体裁で日記を書いておられる方にはかなり敬意を抱く。一度閉じてブログでまた書き始めてみると、ブログというものはもう個人サイトとは全然性質の違うもので、まあいわば屹立した「個人」として書くというより、大衆の中の大河の一滴があれこれぶつくさ言っているような感じで楽ではあるが喜びもそんなに鋭いものでもない。その分、サイト運営に「のめりこむ」危険が少なくていい。

個人サイトを意識してやっていると感情の起伏がそのまま表れがちだが、ブログだとどうにもよく言えば客観的、悪く言えば人事のような感じで自分の日記を見ている。レイアウトもサイト構成も基本的には全部お仕着せだし、gooブログから自分が一人いなくなっても全然どうということがない感が漂っている。実際乗り換える人も多いだろうし。

唯一無二の自分だけのサイト、にこだわる気持ちがブログにしてからかなり減退していて、いわば個にこだわりすぎ、オリジナルにこだわりすぎの近代の病が消えつつあると言えなくもない。それだけ砂のような大衆という現代の病に近づいているといえなくもないが。

個人でサイトをやる限りは、もちろんブログでもそうだが、どのくらいの人にどのくらい見てもらえるかということに意味を感じるのは当たり前だろう。その先にどういう人間関係を眺めているかは人それぞれだと思うが。ただどんな関係であろうと、それが人と人との関係であることには違いない。

アクセスログをつけていないので私のブログを読みに来る人がどのくらいの割合でどこから来ているのか分からないけれど、今までの例で類推すれば日記才人、テキスト庵、gooのシステム、のどれかから来ている方がほとんどだろう。アンテナも多少はあるかとは思う。

日記才人は、本当に長らくお世話になっているし、特にマイ日記才人に登録していただいている方々から見に来ていただく例が一番多いだろうと思う。以前は日記同士でリンクしあって内容紹介なども頻繁にあったが、最近は私の読んでいる日記ではあまりない。新規開拓の意欲が昔ほどないせいもあるが、私自身が読みに行くのはマイ日記とはてなアンテナでほとんどを占める。あとはテキスト庵のアクセス庵を時々のぞくくらいか。

しかし最近、テキスト庵で"HOT IN 6 HOURS"をはじめてからは、ちょくちょく読みに行くようになった。一度読みに行って自分の読みたいものと違う、と思うことが以前は多かったのだが、今回の試みではへえ、と思うようなテキストに当たることが多いのはどうしてだろう。新規開拓の一助になるように、という【な】さんのアイディアは、少なくとも私に関しては当たりだった。

アクセス庵は、【な】さんがおっしゃるように上位が固定していて、ということはそれぞれのテキストの個性がもう分かってる人ばかりという感じになっていて、つまりは申し訳ないけどマンネリ感が出て来ていて、固定ファンにならない限りあまり読む気がしないわけだが、正直固定的に読んでいる人は私などはアンテナに登録しているので、その人を探しにいく意味がない。そうすると結局テキスト庵に行かなくなる、ということになる。テキスト庵自体のアクセスの伸び悩みということも、よくわからないが【な】さんの問題意識にはあったのではないかと想像する。

しかし"6hours"ならばどんどん顔ぶれが変わるし、確かに更新されたばかりの「生きの良い」テキストの中から選ばれたものが読める。これは結構いいと思う。

"24hours"のときにいろいろ意見募集があったので私は更新時間ごとのランキング、つまり朝のベストテン(4時から12時更新)、午後のベストテン(12時から8時更新)夜のベストテン(8時から朝4時更新)というふうにしてみたらどうかという提案をメールしたのだが、まあ微妙に違うけどそれはそれで面白い、という感じの試みになっているなと思う。個人的には、朝のベストテンと夜のベストテンの顔ぶれの違いを見てみたいという興味があったのだけどね。

個人のテキストを読む、ということにはどういう意味があるのだろう。自分の考えていることについて、人の意見も聞く、という意味はある。最近はそればっかり考えていたが、小泉大勝のあとはどうも自分の意見はおそらく相当少数派だということがよくわかってきたし、「世界一小さい政治クイズ」やら「思想のウィルス感染度」をやってみたら私は流行の新保守主義やら新自由主義やらと根本的に全然違う考えを持っているということが初めて自覚されてきた。平等や福祉の政策については、行き過ぎには強い批判を持っていても基本的には非常に重視しているということを改めて自覚したし、まあいえばむしろパターナリズム的な福祉重視思想を持っているといったほうが近い。国境を守るべき、拉致被害者を取り戻すべきと考える根拠は国民全般の福祉や平等を大事に思うことと同じところから来ているのだと思う。そんなことを考えながらテキストを読んでいると、国境審判については同様の考えを持っていた人が社会観、憲法観(特に皇室に関し)全然違う考えを持っていることが分かったり、国防間については鋭く意見が対立する人が福祉観については近かったりということが分かったりする。

あとは何だろう、表現ということについて、真摯な考え方を持っている人のテキストは読んでいて気持ちがいい。プロ意識というのとも少し違うと思うが、「吐き出し」中心の人は読んでいてもこちらに毒が移りそうであまり読む気がしないけれども、「表現」だと思っている人のテキストはその人の人となりは分からないまでも、テキスト自体の矜持というか人間性のようなものが心地いい。まあなかなか、毎日そういうものをコンスタントに書いている人は正直言ってそういないし、日記という形態そのものがもともと吐き出し中心のものでだからこそ誰でも書きやすいということもあるからその玉石混交なところが本来のウェブの日記のありようなのだろう。

そういう意味から私自身の日記を振り返ってみると、ブログになってからどうも吐き出しとかつぶやきといった類のものが多くなっているようにも思うし、内容的に細かいところまできちんと確認せずにアップすることが多くなっている。つまり大衆の一粒みたいな感じでテキストを書くことに対する責任の自覚のようなものが薄れているという感じがある。そしてそうなってしまっていることに対する嫌悪感のようなものが個人サイト時代にはかなりあってよく休筆したり廃止したりすることになったのだが、その嫌悪自体がかなりない。それはどういうことなのか、ちょっと考えてみなければならないかも知れない。

結局、ブログなんてのはその程度のものだ、とだんだん思い始めているところがある。私自身、個人サイトに書いてあることもそのまま信用するわけではないが、ブログに書いてあるだけのことは結構知られている人が書いていることでもなんだか信頼性が低いように感じる自分がいる。個人サイトでは極力玉石混交の玉を増やし石を捨てるようにするストイックな努力が自分に対し要求されているように感じていたが、ブログだとどうせ玉石混交、と開き直っているとでもいうか。まあその楽さ加減によって続いているという面も大きいのである。

で、久しぶりに"HOT IN 6HOURS"から「個人サイト」を読んでみると、昔ながらに自分のテキストにしっかり責任感を持っている思われる記述に当たる確率が高く、ああ、やっぱりこういうのはいいなあ、と思った、のである。今現在、そういうのめりこみが必要なサイト運営はちょっと出来ず、こうしてブログで書き散らしているだけになっているが、また全面的に自分自身で責任を持てるサイトを何かの折には構築してみたいと感じたのだった。

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