中国は列強に侵略されたか/国民新党/日本人の正義

Posted at 05/08/18

昨日は黄文雄『中国が葬った歴史の新・真実』をじっくり読みなおす。黄氏の説は、少なくとも日清戦争の時点までは清帝国が衰えたのは「列強の侵略」のためではなく、18世紀末以来絶え間なく続く内乱・内戦によるものだということ。確かに、世界史を考える上で我々はあまりにも強く「西力東漸」史観、植民地主義・帝国主義史観にとらえられていたなとこのあたりはちょっと目からウロコが落ちる感じ。

高校向けの参考書などを繰ってみても、西洋史の部分はだいたい客観的なしらっとした感じ(革命・社会主義運動関係のところを除く)なのだが、東洋史になると全編植民地主義・帝国主義の悪辣さについての記述がこれでもかと出てくる。もちろん、アメリカやイギリスで書かれた世界史のテキストはこうはならない。どんな形にせよ、善玉・悪玉史観があまり強いのはやはり問題なのではないかという気がする。

むしろ黄氏は、日清戦争までは列強の「侵略」による損害よりも、列強の恩恵の方が大きかったのではないかということを太平天国の乱を鎮定するのにウォードやゴードン、フランス洋槍隊が活躍したことを例にあげている。中国はその後も洋務運動など莫大な費用をかけて洋式を取り入れているわけだし、侵略されているという雰囲気はまだないといえば言える。

自分の中でもアヘン戦争があまりに巨大なメルクマールであったことにいまさらながら気がついたが、これは日本における癸丑以来、すなわちペリー来航と重ねすぎているのかもしれないと思った。日本の場合は、やはりそこからの変化が非常に急激なので、そこにひとつのメルクマールをおくしかないと思うのだが、アヘン戦争はどうなのだろう。列強による中国侵略、というストーリーが先にあって、その始まりがアヘン戦争、というちょっと一方的なメルクマールの置き方という考え方もあるなと思った。

黄氏は下関条約における賠償金金二億両というのが過酷だった、といっているが、南京条約の賠償金洋銀2100万ドルそのほかと比べるとどうなのだろう。銀本位制のアジアで金を要求すること自体が過酷性があったのか。この当たりはちょっと勉強不足でよくわからない。

黄氏の論は、日清戦争以後の「師日」の時代を強調し、日本の中国における功績を再評価しようというところにあるわけだが、それはそのまま中国共産党批判に直結している。このあたりのところは十分読みこみたいと思う。

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綿貫亀井新党は『国民新党』ということになった。「新党ひかり」よりはいいと思うし、あのふざけた新・新党=新進党に比べてもかなりましだと思う。民主党の参議院議員が一人参加したというのは、この党のちょっと目玉になるだろう。民主党はちょっとぞっとしたのではないかと思う。このあたり、腐ってもなんとかである。

しかし、朝日新聞の報道ぶりは、「23人が新党に参加せずと明言」という見出しで、新党の気勢をそぎ小泉翼賛という姿勢をはっきりと出している。まあ事実なんだろうけど、最初っからはっきり潰そうという姿勢もどうなのかなあと思う。

しかし、現実問題として、そんなに幅広い支持を得ることは難しいだろうな。とりあえず今度の選挙を生き残って無所属で当選した造反組と院内会派を作り、その数によって政局のキャスティングボートを握ろうという程度のことしか出来ないだろうと思う。長野県では村井仁が引退を表明したし、総理大臣というのはこれだけの権力を持っているのだと改めて思わされる。

国民新党、という命名も、考え始めるとちょっと場当たり的だ。英訳するとなんだろう。ネイションズ・ニュー・パーティーぐらいならいいが、ニュー・ナショナリスト・パーティーだと略してネオナチか、ということになってしまうな。だいたい新がつく党名で長続きした例はない。新自由クラブに始まり日本新党、新党さきがけ、新生党、新進党、新社会党、新党平和。どっちみち本人たちも自民党に復帰するまでの腰掛だと思っているだろうから、長続きしては困るとむしろ思っているかもしれないが。

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イラクで殺されたアメリカ人の報道カメラマンの記事などを読んでいると、我々にはわかりにくいが、彼らのなかには独裁者フセイン排除ということに本当に道徳的な意味を見出している人が少なくないのだな、ということを思う。同じ道徳的な意味を見出していた人は、ヴェトナム戦争のときもアフガン戦争のときもいただろう。多分、対日戦争のときも全く同じ道徳的意味を感じていたに違いない。

しかしイラクの現状は、近代的な独裁者・フセインに押さえこまれていた宗教勢力が各地で強大化しつつある、という側面が強いようだ。そしてそれは同じ理由から米英人にとっては道徳的に受け入れられない。単純に女性解放を主張する彼らは、アフガン人の女性たちが「ブルカを被る権利」を主張することがどうしても理解できないに違いない。

道徳というものに普遍性があるならば、いや米英人は米英人の、イスラム教徒はイスラムの、中国人は中国人の道徳の普遍性に確信を持っているのだと思うけれども、日本人は自らの道徳に基づいた政策決定、あるいは個人で言えば行動の選択を行っているだろうか、と思う。他人の道徳性を侵害するような道徳は普遍性を持ち得ないのではないか、という点からは英米人の道徳の普遍性も肯定し得ないけれども、少なくとも彼らは彼らなりに正しいと思うことをやっているという点において、行動力という点においても道徳的基礎という点においても強いということは言える。

その意味において、大東亜戦争までの日本人は、もちろんすべての人がそうだとは言えないが多くの人が自らの道徳性を信じそれに基づいてアジアで活動していたことは確かである。そしてそれが、日本人にとっての大切なものであることは認識すべきだと思う。

現代の日本人は強大な力の前にはあまりに早く挫けてしまうけれども、それが正しい行為でないことくらいは認識しておかなければならない。そこで開き直ってしまってはまずい。

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