慰霊ということ:『靖国問題』と『靖国論』

Posted at 05/08/02 Trackback(1)»

昨日。小林よしのり『靖国論』(幻冬舎)が出る日なので地元の本屋(ジャスコの未来屋、西友と駅前の文教堂)に探しに行くが見つからず。昼食後、銀座に出かけて教文館で探したら見つかった。かなり余裕のないスケジュールだったようなので、まだ幅広くは売られていないようだ。Willでは東條英機の東京裁判における供述証書が出ているということ立ち読みしていたら8月上旬に全編が発売されるということなのでそれをまとうと思う。しかし価格はどのくらいになるか。

6階の喫茶店に上って靖国論を読む。新しく知ったこともいくつかあったが、やはり衝撃だったのは現在無宗教とされているいくつかの慰霊施設の様子で、千鳥ヶ淵の戦没者墓苑と警察庁の殉職者を祭る弥生慰霊堂の例が挙げられていた。今でも靖国神社が毎日参拝客が絶えないのにたいし、いかにもさびしげなその様子は、慰霊というものに宗教的な裏づけが必要なことを良く示していると思う。慰霊というのは、近代的な施設で死者と対峙するものではない。伝統的な神社や仏閣、教会でもいいが、そうしたある裏づけの中で、「死者とともにいる」ことなのだと思う。護国神社などでも、正直言ってそうした雰囲気がなくなってきているところも残念ながら少なくない。

『正論』などで高橋哲哉『靖国問題』を批判した記事をいくつか読む。みんな引っかかっているのは、「悲しいなら悲しいことをとめないこと」という記述のようだ。悲しいのをとめないで生きていくことが誰に出来るか、という批判は最もだと思う。国のため、公のために死んだのだ、と納得することでまだしも整理が出来る。人が死ぬということは戦争に限らず理不尽なことだし、誰もが悲しみ続けていればいいというのは暴論だし、悲しみにいかに向き合いつつ生きていくかというところに人間らしい宗教や文学の営みがうまれるのではないかという佐藤優の指摘はそのとおりではないかと思った。

よくわからないが、本当は高橋氏は国のために死ぬということ自体があってはならないことだというのが本来の主張だと思うのだが、やはりそれ自体がおかしいと思うし、そこら辺に溝があるのだろうと思う。誰かのために生きない人生などどこが楽しいのか、価値があるのかと思う。その対象が国であってなぜいけないのか。もちろん誰かにだまされてつれてかれてひどい目に合わされた、みたいなことは皆無ではないだろうし、そういうことはなるべくないほうがいいに決まっている。しかし、だからといって国のために命を懸けるということを選択した人を非難するのもまた筋違いだと思う。

高橋氏は戦犯何とか法廷とかをやっていたが、そういうところに出席した人も、あまりその趣旨を理解しないまま、悪く言えばだまされてつれてかれてとんでもないものに出席してしまった、と思っている人もいるのではないかと想像する。そういうことは絶対にないのだろうか。

なんとなく、いや、もちろんそうではないのだろうけど、高橋氏の言い方には楽しいからこっちの方に参加しなよという感じの民青のオルグのようなものを感じてしまう。

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