「出来ること」を100書き出してみる

Posted at 05/08/02

やりたいことを100書き出してやりたいことをはっきりさせるというメソッドの話を友人から聞いてなるほどと思ったが、最近特にこれをやりたいぞ、というものがあまりない。

以前、藤本義一が30まで(だったかな)はやりたいことをやればいいが、30以降はそんなことを言っていたらだめだ、やりたいことではなく出来ることをやらなければならない、というようなことをいっていた。以前は出来ること、なんてほんのちょっとしかないような気がしていたのでそれはつまり大人になったらしょぼい人生で我慢しろという意味なのかと思い余り重視していなかったのだけど、このメソッドの話と照らし合わせていろいろ話していると、昔に比べて「出来る」と感じることがかなり飛躍的に増えているということに気が付いた。

そう考えてみると、やりたいことを100書き出すというのは若者向けのメソッドで、われわれくらいの年代になったらむしろやりたいことというより「出来ること」を100書き出してみるのが良いと思った。もちろん、出来るけどまだ実現させていないこと、やりたいと感じていること、やらなければと感じていること、そういうこともニュアンス的にこの中に含まれる。つまり出来るとは思うし楽しいとは思うけれどもやらない、時間がない、面倒くさい、手間がかかる、というようなことを一度洗いざらいにしてみることによって、今つい滞ってしまいがちな自分の動きを再活性化してみるということである。

で、実際にやってみると58くらいでストップした。なんだかんだ考えながらあと20、あと10と結構出し切る感じで出してみると、『働きマン』に出てきた編集者が雑誌の記事の企画を10本出せといわれて出し切ってる感じに似ているなと思ったり、なるほどあれはこういう感じかと感心したり。創造性とかクリエイティブなものというのは、自分自身のある能力のそれを少し超えたくらいの設定のところで最も発揮される、というのは自分自身が演劇などをやっていたころは感じていたけれども、あまりクリエイティブでない仕事に沈潜しているとそういうことを忘れてしまう。

正直言って、そういうことを覚えている、という能力は昔に比べるとかなり格段に上がっている感じがする。そのときそのときで熱中はするがすぐに忘れる、というパターンが多かったが、最近はそうでもない。感性の働きどころが、昔は感受性というか自分が感動することばかりを追い求めていたのに、最近は「一般性」のようなものへの関心がかなり上がってきている。いや、一般性の追究というのは昔からないことはないのだけど、なんというか以前は理知的とか観念的なレベルのものだったのがなんというかもっと手触りのあるものになってきたという感じがする。

つまり、こういう言い方をしたらいいか。以前は感覚的といっても目と耳と脳で反応していること、という感じだったのが、なんかもっと身体的というか、現実の身体とは必ずしも言えずオーラ的な反応というとオカルトな感じがしてしまうがまあ身体的といっておくのが一番無難な言い方だからそうするが身体的な反応が伴うという感じなのである。

まあとにかくそういうものを出し切ってみて、で出し切ってみたと思うとまだどんどん出てくるふたの外れた蜂蜜の瓶のような感じだ。出来ることはそんなに多いとは思わないが100くらいはある、と思っておくのもまあ悪くないし、暇なときにそれを眺めてじゃあ今はこれをやるぞ、と思うのもなかなかいい。

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