スノッブな薀蓄話を一般読者に読ませる方法/皇帝カリギュラと小泉首相の共通点

Posted at 05/08/29

結局八代英太が無所属で東京12区に立候補するようだ。このどうということもない話がニュースになるのは、公明党のプリンスと言われているらしい太田氏がここで立候補することである。自民党執行部はここを自公協力で太田氏の当選を図ったのが、八代氏の立候補により自民投票が割れてしまうことを懸念したのである。しかし、そこまで太田氏に気を使うのもどうも奇妙な印象を受ける。郵政民営化賛成の公明党候補に反対の八代候補がぶつかることもまた選挙民に選択肢を与えることであろう。結果的に筋が通ることになったと思うし、ただこれがどのように影響を及ぼしていくかは考えるべきだろう。

昨日は午後丸の内の丸善に出かけ、大河原遁『王様の仕立て屋』1・2巻(集英社)を買う。そのままお茶でもして帰ろうと思っていたら、一階で塩野七生『ローマ人の物語17~20 悪名高き皇帝たち』(新潮文庫)が発売されているのを見つけてしまった。一括で買おうかとも思ったが、買ってしまうと読み耽ってしばらく身動きが取れなくなる可能性もあるので17・18巻の2冊だけ買った。果たして勘は的中した。

『王様の仕立て屋』は昨日の日記でアニメオタクっぽさが頂けない、と言うことを書いたが、第1巻はそういう感じはあまりなく、第2巻からぼつぼつそういう雰囲気がにおい始めていると言うことを知る。仕立て屋の町・ナポリを舞台にした若い日本人の天才仕立て屋の活躍、という設定自体まず現実離れしているが、ナポリにフィレンツェの大学のバザーで手作り品を売っていたことからスタートした女子大生上がりの巨大服飾グループが殴り込みをかけるという話でどんどん現実離れしていく。これによってアニメオタク垂涎の美形女子を大量に登場させられるフリーハンドを得、オタクくささが満開となっていくようだ。

しかし、実際このマンガで語られる多くの薀蓄は興味深いものが多い。服飾に関するルールというものは私などもあまり知らないし、仕立てひとつで人は健康にもなり病気にもなるとか、ワイシャツ一枚に80万円出す社会の話とか、へえってなもんである。

この手の話、どうしてもスノッブになっていかざるを得ないが、『美味しんぼ』や『レモンハート』、あるいは『ギャラリーフェイク』でもそうだがあまりスノッブになりすぎると日本人の一般読者がついていけないので、一般読者に近づける努力が色々行われる。『美味しんぼ』も途中から全く面白くないギャグが多用されるようになって興ざめだったが、『王様の仕立て屋』の場合は現代のアニメオタク小僧の標準に近づけることによってそれを解決しようとしているのだと思う。『レモンハート』のようにほのぼの路線に行くというのもある種の安定感があるし、『ギャラリーフェイク』のように現代の政治や社会問題に関連付けたり従業員でありアラブの大金持ちでもある女性との恋愛話を絡ませることによってあまりのスノッブ化を防ぐという工夫もある。

私などからすると『ギャラリーフェイク』の行きかたが一番読みやすいが、時にあまりに絵空事になることもあるし、難しい。『王様の仕立て屋』のようにナポリの話になってしまうと、まず日本と関連付けること自体が難しいし、逆にネタはナポリから持ってきても登場人物やストーリー自体は全く日本的にしてしまうというやり方は実は結構頭いいかもしれない。しかし、これが実際の南イタリアだ、と思う人は皆無だろうなあと思う。まあそれはそれでいいんだろうと思うけど。

『悪名高き皇帝たち』はアウグストゥスのあと、ユリウス=クラウディウス朝のティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロの4人の皇帝の物語である。今回読んでいて思ったが、『ローマ人の物語』は歴史学者の言う歴史でもなく、かといって小説とも言いにくい。文字通り、『物語』というのが一番良く当てはまる作品である。解釈や想像はふんだんに加えているが、史実には忠実である。語り手や敵役として史実に登場しない人物を出したりはしない。そういう意味で司馬遼太郎の『燃えよ剣』的な歴史小説ではないのである。しかし、解釈や想像は人間観察に基づく部分がほとんどであるから、歴史家がこだわる実証的な証拠とはいえない根拠が多く、歴史書、とは言いにくい。やはり一番ふさわしいのは「物語」という言葉ではないかと思う。

ちょっと驚いたのが、クラウディウスの話がいきなりナポリ湾の景勝地、カプリ島の皇帝別荘地の話から始まったことだ。ナポリの仕立て屋の話なんてものを読んでいること自体が私には珍しいのに、カプリ島に隠遁しそこから元老院に指令を出して帝国を統治した老皇帝の話を読むとは思わなかった。ユングが共時性(シンクロニシティ)ということを言うが、こういう偶然は私にもよくあるので、非常にそういうものを意識させられる。

今のところ読んだのはティベリウスとカリグラの部分だけ(17・18巻)であるが、ティベリウスという皇帝の有能さと暗さというようなことは印象的だ。ティベリウスは人嫌いで晩年はカプリの別荘にこもりきりになっていたため異常な性的嗜好に耽っていたという憶測が生まれ、ナポリ人は現在でもそれを信じているらしく、『王様の仕立て屋』の中にもティベリウスが青の洞窟の中で裸の美女を泳がせ品定めをしたという話が出てくるが、塩野はティベリウスについてそういうことをいっているのはイェロウペーパー的な歴史家であったスヴェトニウスだけだとしてその話の信憑性を否定している。

で、カリグラのほうは頭は悪くなかったが自分の思いつきでショウ的な政治を行い、ついにローマの国家財政を破壊して暗殺された皇帝として描かれている。パフォーマンス(のみの)政治の元祖という感じである。次々にサプライズを繰り出して国民の支持を得ようとしたりするところ、また自らを神格化させようとするところなど、つい小泉首相を思い出して笑えて来る。この単行本が出たのは1999年のことだから小泉首相の登場前なのだが、彼に対する皮肉として書かれていると思っても読めるところが面白い。

考えようによっては小泉首相は「郵政民営化という政策」を「神」のようにあがめる「司祭」と見えなくもない。物神化された政策というのも珍しいが、金正日の核の脅し政策や盧武鉉の親日派あぶりだし政策のようにあまり現実的とは思えないが国民をめらめらと枯葉のように燃えさせる物神化された政策を取る東アジアの「指導者」たちとある意味にているかもしれない。イギリスなどと違い、思い込みの強い政治家が人気を得る土壌がどうしても東アジアにはあるのかもしれない。

カリグラを暗殺した「刺客」は彼が幼少のころから彼に付き従ってきた近衛兵の大隊長だったというが、小泉首相はさて、どうなるか。

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by Luke Peterson

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