作家の力/全共闘運動/自分自身を知ること

Posted at 05/07/26

『キリマンジャロの雪』と『日本の戦後』を平行して読書中。ヘミングウェイの文体は非常に簡潔で過不足ない表現、というにふさわしい。「はるか彼方のその高台の丘陵は、じっと目をこらして見ていると消えてしまうが、いいかげんにみていると、ちゃんとそこにあるのだった。」などという描写にはうならされる。こういうことって、感じてもなかなかそうは書けないのだが、こういうことがこういうふうに書けるのが作家なのだなと思う。

『日本の戦後』は全共闘運動、山下洋輔のピアノ事件などの記述で、田原総一朗がこんなに全共闘に肩入れし、思い入れを持っているとはと驚いた。全共闘運動というのはかかわった人が子供のころ周りに沢山いたので、私自身もなんとなく影響を受けているところがあるが、マルクスなんてどうでもいい、と考えている人が非常に沢山いたということにちょっと驚いた。唐十郎や寺山修司といった人々を旗手とするアンダーグラウンド演劇にも、学生時代には結構かかわりがあったので、世代的には全く感性が違うところもあるのだが、ある点と点においてこういうことが好まれ目指されていたのかというところを感覚的に理解しているところもある。なんというかうまくいえないが、われわれの世代はこうしたものと全く無縁な人たちも多いが、そういうものから何かを吸収しようとしていた人たちも多く、私は割合後者だったので、まだそういうものの中で自分がよくわからないところも多くあるのだと思う。田原は全共闘より上の世代だからその感じ方は全然違うと思うが、その客観的な描写によって私自身にとってもヒントになることがあるかもしれないと思う。

全然関係ないが昔の職場の友人と話していて、自分がやりきれなかったのは別の原因だけでなく、話すに足る同僚、あるいは共通の目標を持って努力できる仲間というものがほとんどいなかったからなのだなということにいまさらながら気が付いた。私はそういうことに案外鈍感で、あまり人に期待しないたちだと自分では思っているのだが、自分の見えないところで実は非常に多くのことを人に求めているのだなということは最近良く思う。そうでないことが仕方がない、と頭では割り切っていても、その不満が澱のように自分の中にどんどんたまっていき、どんどん人間不信という方向に行ってしまったのだと思う。

自分でやるべきことをやるのも大事だが、やはりこうではないかということをちゃんと人に伝えていくこともあまりおろそかにするべきではない。私などは言葉がきつすぎるからつい自制しすぎるのだが、そこがうまくやれるということも大事なことなんだよなあと改めて思った。

さても、『汝自身を知れ』とは難しいことだ。

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