「葬送のフリーレン」:原作の素晴らしさアニメの美しさセリフの厨二病を超えた深さ/李克強の死/ガザの国連職員/「ポップとは何か」

Posted at 23/10/29

10月29日(日)曇り

昨日は午前中に一つ請求書の支払いをし、その後で昼夜の食事の買い物に行きながら、「葬送のフリーレン」の2〜4巻を買ってきた。4巻まで読了したが、絵が細かいのでどちらかというとKindleの方が読みやすい気もする。ただKindleは拡大しても絵が粗くなるところがあるから必ずしもベストというわけでもない。しかし細かくすると当然ファイルサイズが大きくなるわけで、そこは痛し痒しだなと思う。

この話は私が読んできた系統の話とはかなり違うなと思うのだが、なんというかおたく的な意味ではこちらの方がむしろ主流なのかなという気もする。これはいわゆる「ファンタジー」の世界、それも「西欧中世冒険ファンタジー」という意味でこのジャンルの王道で、私はゲームでもマンガでもあまりこの分野に手を出して来なかった。「ドラゴンクエスト」でパーティーを組んで冒険に出るが、私はまだ勇者が単独で魔王に挑む「ドラクエI」しかやったことがないし、そういうものもほとんど手を出して来なかった。

ただ、「ダンジョン飯」は読んでいるので「冒険」が「パーティーを組むもの」であり「人間の勇者」や「エルフの魔法使い」「頑丈なドワーフ」「治癒力を持つ聖職者または僧侶」などが定番、ということはある程度知っている。また「Landreaall」でもDXたちのパーティの構成が「商人」「智者」「忍者」などから成っているということで、そういうものを踏まえているということを読んだことがある。

この物語が新しいのは「勇者」たちによる「魔王討伐」が終わったところから、その後日譚として語られているということで、「長命なエルフの魔法使い」であるフリーレンがこのパーティーの人々の死を見送りながらこのパーティーの人々、特に「勇者ヒンメル」を「理解しようとしなかった」ことに後悔を感じ、「人間を理解するための旅」に出る中で、「魔法使いの弟子・フェルン」や「勇者の弟子・シュタルク」、「聖職者の弟子・ザイン」たちとパーティーを組むようになり、新たな世代を育てていくのかなという印象になっている。

この作品はこの秋アニメ化されかなりの評判を呼んでいるので、普通なら見ないのだけれども少し興味が湧いて見ることにした。その前にマンガで予習しておこうと読み始めたのだが1巻しか読み終えてない時点でアニメ8話を見たのでまだ出てきていないシュタルクが重要なポジションになっていて、魔族が出てきているのだがその設定もよくわからないからなんとなく見ていた。見終わった時には「ふーん、こんなものか」という程度だったが、Twitterを見ているとこの放送に触れたツイートがかなり多く、読んでいるうちになるほどと思うところも出てきて、とりあえず追いつこうと2巻まで読んだらちょうどアニメの進行に追いついて、いろいろなことがわかってきた。いろいろ納得したところもあったのでもう一度アニメ8話を見直してみたら、この回がかなり重要な回であり、またその表現もかなり奥深いということもよくわかり、ツイートの意味もわかってきた。

現時点までの感想(単行本4巻まで読了、アニメは8話のみ視聴)を言うと、世界観がとてもしっかりしていて安定感があると言うこと。これは「西欧中世冒険ファンタジー」と言う多くの作品が作られてきたジャンルの王道を行っていると言うことが一つあるだろう。私はこのジャンルをほとんど読んでいないからそれぞれのキャラクターの一般的なイメージからのずらしと言うところははっきりはわからないが、勇者ヒンメルが「大体いいことを言って善意で行動する」人であるとともに「勇者の剣を抜けなかった」と言う重大な事実が語られる。それでも魔王は倒した、と言うことの意味がどう言うことなのか。先を知っている人にはわかっていることなのかもしれないが、「実は魔王は退治されていない」のではないか、みたいなことも思ったりした。

映像的には伯爵の屋敷の外で満月を背景に宙に浮いているフェルンの姿がとても印象的で、それにフリーレンを重ねることで魔族リュグナーがフリーレンを思い出す演出は良かった。このコマは原作では一コマだけなのだが、ここをクローズアップして今回のクライマックスに持って行ったのは演出の力だとわかり、漫画だけでなくアニメを見る意味が強く感じられて、全体に意義深く感じた。

それぞれのキャラクターが魔族のような悪役も含めて何か意味がありそうな、深そうなセリフをいう物語というのはそんなに好みではない、というかそういうものは「甘すべり」しがちというか、格好をつけているだけ厨二病的で恥ずかしい、ということが多いわけだけれども、適度なギャグやそのキャラのだらしなかったりそういう意味で人間的な部分を描写することでそういうものが相対化され、物語的な深みを与えるのに貢献しているのがいいなと思った。おそらくこういうものはある意味で「厨二病を極めた」人だけができることなのかもしれないなと思う。原作者がどういう人なのかはよく知らないのだけれども。

ただ、こういうセリフは日常的な平板な状況ではなかなか出て来ないわけで、世界の設定や人間関係も封建的だったり仲間意識があったり先輩後輩があったり上司と部下があったり支配者と非支配者があったり経験の広い狭いがあったり、さまざまな緊張のある関係があるからこそ出てくるわけで、そうした必ずしも身近にはないさまざまな関係を描き出す力というもの必要になってくるわけで、やはり力のある作者さんたちが描いているのだろうなと思う。

ググるといろいろ情報は出てくるが、とりあえずまた書くことがある時に書こうと思う。

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中国の李克強元前首相が急逝し、さまざまな噂が立っている。彼は太子党である習近平とは出身母体が違う共青団の出身で、習近平と対抗できる力を持った数少ない要人だと思われていただけに、この死にさまざまな憶測がつきまとうのはある意味仕方がないことなのだろうと思う。日本の水産物を突如輸入禁止にするなど強引な政権運営が目立つ一方で、ウクライナや中東問題にも手を出している最中に起こったハマスのイスラエル侵攻でアメリカが中東一辺倒になる隙ができたことはある意味中国にとっては好機かもしれないのだが、内部的な不協和音が変な形で出ているのは日本にとって良いことなのか悪いことなのか。本当の情勢はわからないのでまだ様子を見るしかないのだろう。

ガザでは国連職員の死が50人を超えたということでイスラエル側への非難が高まっているが、ガザの国連職員の多くは現地採用、すなわちガザ市民だと思うので、イスラエル側や諸国の側がどのような対応をするのかがよくわからない。国連職員というのは普通は出身国を背負っているわけで、それが殺されたらその出身国は大騒ぎになるのが普通だけれども、ガザ市民にはそのバックになる国を背負っていない(パレスチナ自治政府はすでにずっと当事者)わけで、その反応も普通の国の場合とは違うだろうなと思う。いずれにしても人道のために活動している人たちが犠牲になるのはよくないことなので、イスラエル側にも自重を求めたいが、イスラエル政府からは半ば国連を敵視するような言動が出てきているし、「さらば国連!我が代表堂々退場す」になってないのはアメリカが抑えているということなのかもしれないなと思う。

ネタニヤフ政権は宗教右派政権というより右派ポピュリスト政権なのでかなり風見鶏的に態度を変えるところがあるから逆に希望はなくはないところはあるのだけど、みている側としては早く落ち着くことを祈るしかないのが現状だ。

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Twitterを読んでいて、「ポップとは何か」という話題が出ていて、私も「ポップだな」と感じることはもちろんあるのだけど、80年代の文物に感じていた感じ、というのが私の「ポップ」の基本かな、とは思う。

https://www.nttpub.co.jp/webnttpub/contents/comic/076.html

私は1962年生まれなのでここで言及されている椹木野衣氏と同年なのだが、私は氏の文章はほとんど読んだことがないのでよくわからない。ただポップとはアメリカ的なもの、という感覚はわかる。自分のポップのイメージはやはりアンディ・ウォホール的なポップアートのイメージが強い。音楽の方は自分の感じるポップはテクノポップよりもあの頃のユーリズミックスなどが自分の中では近いだろうか。「ストップ!ひばりくん」に代表される「おしゃれイメージ」も自分の中ではポップ感が強いし、椹木氏や伊藤氏がいう感覚と自分が感じる「ポップ」というものはずれている感じがする。

例えば初期の「OnePiece」にアメリカ的な風景、「Dr.スランプ アラレちゃん」に出てくるような風景があるが、この辺りは私はポップだなと感じる。というかワンピースは自分の中ではかなりポップな作品だな。あの時代に「ポップ」をやっていた人たちはだんだんそこからはみ出して自分独自の世界を作って行った印象が強いけれども、江口寿史さんにしても尾田栄一郎さんにしても割とそのルーツ的なところはポップな世界に今でも根があるような気はする。

ノリとしてはシラケ世代、ある種の終わりなき日常、スキゾキッズ、みたいな感じだろうか。日常を全てポップに再構築できるのではないか、みたいなところもあった。人民帽やカンフーシューズをファッションとして受け入れていたような感性というか。ポップというものはその意味ではある種の世界の再解釈の方法であった気がする。その最も軽いものが軽チャーとか言われていた感じである。

ただ現実には阪神大震災、オウム真理教事件、失われた20年、911同時多発テロ、テロとの戦争、北朝鮮拉致被害の判明など時代はポップとは逆の方向へ動き、軽チャーどころかシリアス一辺倒になった。

しかし、日本のアート、音楽や画像表現は逆に言えばどんどんマンガ・アニメ化して行ったこともまた事実で、そういう意味ではポップは一時の流行ではなく一つの主流になったということは言える。今連載されているものでいえばジャンププラスの「放課後ひみつクラブ」や「不治の病は不死の病」などにポップさを感じるのだが、「幼稚園WARS」や「対世界用魔法少女つばめ」などもポップだなと思う。ポップというのは精神の問題なんだろうなと思う。音楽ではDJミックスなどを聴いているときにポップさを感じることが多い。

だから「何がポップか」というのはおそらくは「何がロックか」というのと同じ問題で、それを論じる人の数だけポップはあるのかもしれないという気もする。また「放課後ひみつクラブ」や「対世界用魔法少女つばめ」について言及するのも、今の若い人なら「ポップ」とは違う言葉を使う気がする。

https://shonenjumpplus.com/episode/14079602755278384822

まあそんなこんなでまとまらないが、「ポップとは何か」というのは考えてみれば面白い話だなと思ったのだった。

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