明治初期は日本人の多くが中国に憧れていたこと

Posted at 23/09/12

9月12日(火)晴れ

毛沢東とかについて考えていて、ブログに書こうと思って忘れていたことを思い出したので少し書きます。

日本は中国に対しては第二次世界大戦の賠償責任を免除されていて、それは蒋介石が「怨みに報いるに. 徳を似てす」と言って賠償を求めなかったことに由来しているわけで、これはインドのパル判事の日本無罪論と並んで戦後の日本人を大変感激させ、保守党政権が強烈に台湾の中華民国を支持し、反中共体制を撮り続けたことを結果したわけだけど、この辺は蒋介石の駆け引き上手というか、「以徳報怨」とか上手いこと言った言葉のセンスみたいな点がより感動を深めている面がある。

と言うのは、旧中国で教育を受けた士大夫層というのは、もともと科挙を受験するような人たちだからめちゃくちゃ漢文的な教養があるわけで、地主の子だった毛沢東も詩をよくし、現代の漢詩でも必ず名前が上がる詩人の一人である。

ここから話は前の記事の福澤諭吉の話に繋がるわけだが、日本独自のものと言っても、江戸時代から明治初期にかけての日本人の中国に対する憧れというのは大変なもので、日本独自のものというのに関心があるのは国学者やそのシンパという感じだったから、福澤の危惧もそう的外れではなかったのだろう。前崎氏の著書にも中国の領事が日本に赴任したとき、まるでスターのようにみんなが会いにいったという話が書かれていたと思う。

私がよく覚えているのは、「原敬日記」を読んでいたときにへえっと思ったのは、明治10年代だがまだ若い彼が外務省の職を得て、天津領事として清国に赴任していたとき、交渉のカウンターパートが天津に居を構えて清国の政治全体に睨みを効かしていた北洋軍閥・北洋艦隊の主人・李鴻章だったということである。彼は文人としても著名であり、当時の天津には多くの日本人が来訪していたが、みな李鴻章に会いたがっていて、それも交渉とかよりも彼に一筆何か書をしたためてもらいたいが故に会いたがっていて、その様子を原は批判的に書いている。原自身はそういうことをしたら交渉に支障をきたすと弁えていかに李鴻章に要求を認めさせたか、みたいなことを書いているが、日本人の実態はそんな感じだった。

また犬養道子も、祖父の犬養毅が交流のあった張作霖からきた手紙が、青い便箋で流麗な文字で記されていて、中国の文化の高さを感じた、みたいなことを書いていた。

現代の中国の官僚がそんなに教養があったら日本の政治家なんていっぺんにやられてしまうかもしれないが、当時の中国と日本の関係というのはそんな感じだったわけである。

ただ、実際には長崎に寄港した北洋艦隊の軍艦の水兵たちが暴動事件を起こしたりもしていて、民衆はそのレベルではなかったし、日清戦争で日本が勝利したこともあって中国への敬意はいっぺんに失われ、よく知られているような蔑視差別が始まるわけだが、明治初年の日中の関係というものは押さえておきたいところだと思ったので追加で書きました。

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