道頓堀に26人/「天幕のジャードゥーガル」/アートの「政治利用」と「平和利用」:「ナチスは良いこともしたのか」という問いの意味

Posted at 23/09/15

9月15日(金)晴れ

昨日は疲れて寝てしまったが、阪神が優勝したということでニュース番組もそればかりだったので早く寝た。今朝起きてネットを見てみると道頓堀川へ飛び込んだ人は午前3時現在で26人とのこと。テレビの映像で見る限りではかなり厳重な警備だったが、隙を突いて飛び込んだということなのだろうか。こういう行動というのはなかなか止められるものではないけれども、大阪の阪神ファンにしかわからない何かがあるのかもしれないなと思う。くいだおれ人形は無事だったのだろうか。

昨日は朝はちょっとトラブルがあったがなんとかブログを書いて11時過ぎにクリーニングを取りに行き、蔦屋へ行って「EDENS ZERO」28巻、「天幕のジャードゥーガル」3巻、「17歳からやり直すプロポーズ」4巻の3冊を買った。今のところ「EDENS ZERO」は読み終わり、「天幕のジャードゥーガル」は読みかけ。

「天幕のジャードゥーガル」はモンゴル帝国の史実を扱っているから、ちょっと大切に読みたい感じ。主人公ファーティマ(ステラ)はいよいよモンゴル帝国の中枢に入っていき、第6皇妃のドレゲネに使えながら第1皇妃のボラクチンにも接近していて、しかしオゴタイが倒れた時にトゥルイの皇妃のソルコクタニの元からきたことをボラクチンに知られていることが判明。もともとソルコクタニは密偵としてファーティマを送り込んだのだが、ファーティマ自身はソルコクタニに反感を持っていて、ドレゲネと共闘を誓い合うなど、非常に複雑な関係になっている。もともとこの作品は「このマンガがすごい!2023」のオンナ編第1位ということで読み始めたのだが、大変本格的な歴史ドラマでとても面白いなと思う。

「17歳からやり直すプロポーズ」は「社畜と少女の1800日」の板場広志さんの新作で高校生時代にタイムリープする話なのだが、ぱらぱら見たところではこの巻に至って新展開をしているようだ。楽しみにしたいと思う。

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いろいろと心が忙しくなったり落ち込んだりするようなことがあり、「アートと人間」というテーマについて仕切り直しをしてみているのだが、その辺りのことはまた時間がある時に書く。まだまだ考えること、思いつくことは多くて、それをまとめることと、考えを進めることで新たな発想が出てくることもあって、まだまだ尽きない感じはある。

ファシズムによる芸術利用に関しては、たとえばラジオの普及とかアウトバーンの建設とかも広義で入れていい感じはするわけだけど、「ナチスがいいこともした」かどうかというテーマで言えば、「悪意をもってラジオを普及させたならそれはいいこととは言えない」が、「そうやって普及されたラジオはいいことにも使える」ということであって、ラジオ自体は政治的には価値中立的なもので、使用価値は経済的にも芸術的にもいろいろある。

ナチス政権が崩壊した後、ナチスによって「悪意をもった政治利用目的」で普及されたものをいわゆる「平和利用」をすることによってそれは「良いもの」になったと言えるわけだ。ナチスに利用されたからラジオは悪いものだという人はいないし、悪い出自を持っている、みたいにいうこともどうかと思う。

そう考えてみるとこれは原子力でも同じで、「兵器という軍事利用目的」で悪意をもって開発されたという意味では原子力は「悪い出自」だと思われがちだが、原子力というもの自体は本来は価値中立的なものであって、現在は原子力発電等に「平和利用」されている面もあるわけだから、この技術自体が悪いものであるとは言えない。もちろん不十分なところはあるにしても、自動車技術と同じで弊害はあってもそれを克服する研究も進んでいるし現代社会においての使用価値が弱点を上回っているから使われている、ということもある。

だから「ナチスは良いこともしたか」という問いの立て方自体にあまり意味はなくて、ナチスが悪意をもって実行した政策自体を良いものと評価するのはやはり問題がある。ただナチスは科学とか技術というものに対する信仰があったようにも思うし(この辺はもう少し掘り下げたい)それが故に科学技術の発達が促進されたとしたら、それを「良いこと」と評価するよりは、いかにそれを「平和利用に活かす」ことを考えた方がいいということだろう。政治的評価と結果的に平和利用も可能なものを生み出したということとは分けて考えるということではないかと思った。

ただまあ、科学技術というものが諸刃の剣であることは確かであって、それが開発されたら後戻りができないというものでもあり、そこで人類は何か決定的なものを失うというふうにも言えるわけで、そういう技術論とか文明論とかはまた別に考えた方がいいのだろうと思う。ファシズムというものは民主主義的な制度を利用して出てきたものであり、また科学技術を利用して大きな惨禍をもたらしたものでもあるから、ある種の近代文明の寄生虫というか悪性新生物というか、そういうものであって、逆に言えば我々は近代的政治制度や近代的科学技術を利用していく限り、常にそういう「病」が起こる可能性はある、と考えておくということなのだろうと思う。

この辺のところももう少し考える必要があるので、また。

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