市川沙央「ハンチバック」読了:「死にかけてまでやることかよ」の向こう側

Posted at 23/07/24

7月24日(月)薄曇り

昨日が二十四節気の大暑。文字通りの本格的な暑中ということになった。それに加え、今週は「例年より暑い」とのことなので、まずは今週を乗り切ることが大事かなと思う。当地では今朝の最低気温が21.9度。家の構造のせいもあるのだろうが、最低気温が22度くらいだと寝苦しく、今朝も早く起きてしまった。

もちろん東京などと違い冷房は入れずに済む(というかほとんどの部屋に冷房はない)のだが、夏掛けやパジャマなどを工夫しながら寝ても空気のモワッとした感じは如何ともしがたく、今朝は途中で2階で寝るのを諦めて居間に布団を敷いて寝てみたが、それでもまだ過ごしにくいものを感じた。空気が動いて欲しいので襖を開けてあるのだが、そうすると台所の冷蔵庫の唸り声とかが聞こえて寝付けなかったりする。この辺は冬は閉めておけばいいからいいのだが、夏の暑さによる寝苦しさの対策も考えるべきところがありそうだ。

市川沙央「ハンチバック」読了。面白かった。いや、面白かったと言っていいのだろう。色々と考えさせられた。性描写が云々とか難病患者の当事者小説だとかいろいろと言われているが、まあその辺で読みを深めるのをやめてしまうのはもったいない小説だろう。例えば高校生の頃、あるいは大学初年で読んでいたら結構そういうところに大きなインパクトを受けた気もするが、描写のエグさとか性描写のキツさという点で言えば例えば「闇金ウシジマくん」とか「スタノファニ」くらいかなと思う。

昨日読んでて感じたのは、弱者とは誰か、みたいなことかなと思うのだが、難病患者の女性といえば通常可哀相ランキングで相当上位になるわけだが、作中の主人公は両親がブラックカード持ちで今は自分が入っている障害者施設の所有者でもあるという立場で、数億円をすぐに動かせるという立場である。メインに関わってくる相手、能で言えばワキは介護職員の田中くんという30代の低身長の男性で、しかし仕事はとてもきちんとしている根が真面目な感じだが、どうも世の中やこの主人公女性のあるポジションにある種の憎しみを感じている感じである。作中では「軽蔑」という言葉が使われているが、私が考えてみて彼が主人公を蔑む理由というか理路がよくわからないので、健常者マウントをとっている、くらいの感じなのだろうか。

彼は典型的な弱者男性として描かれているが、「仕事がきちんとしている」というのはもちろん美点だろう。

主人公は難病患者ながら性風俗のコタツ記事を書いてお金を稼ぎ、また通信制の大学で表象系の学科の卒論を書いていて、フェミニズム用語も多量に出てくる。しかし「筋肉の設計図にバグがある」難病のおかげで本を読むということは相当な重労働であり、そうした人にとっても本が読める環境整備を求める部分は切実さを感じた。しかし、親の遺産と配慮で死ぬまで十分な態勢が組まれていて、お金を稼ぐ必要も勉強する「必要」も本当はない。しかしそれは「生きるために身体を壊しながらやっていること」であり、そこに主人公の実存がある、とまあ簡単に言っちゃえばそういうことなわけである。

だからコタツ記事の収入も全部寄付するし、自分が面白いと思ったものは購入して施設に寄付するなどのことをしていて、恐らくはそういうこと全てが「弱者男性」である田中くんには気に入らないわけである。

主人公は田中くんと嫌味の応酬をしているうちに一億五千五百万やるからセックスをしようという話になる。金と金の関係ならば対等だ、というようなことだろうか。主人公の望みは「この体で妊娠して中絶する」ということなのだが、それは「モナリザに赤インクをぶっかける」行為と同値のように語られていて、この辺はプロライフの人が読めば激怒する内容なのだが、昨日Twitter読んでたらトランス女性が「トランス女性として初めての妊娠して中絶した人になりたい」、みたいなことを言っているのを読んで、まあクズっぽい願いだと私などは思うのだが、妊娠中絶を物神化しているプロチョイスのフェミニストならそういうことを考えるのだろうなとは思った。

結局田中くんは1億5千5百万と引き換えにそれに応じることにするわけだが、夜中に忍んできた彼に対し主人公は「まず精液を飲ませて」という要求をする。田中くんはそれに応じて主人公の口は陰茎を含むわけだが、口の中でこの陰茎は包茎手術をしていてそれも保険診療の安い方ではない、みたいな分析をしているのはエグいのだが、ということはここまでは少なくともやったことがあるということでもあるのだろう。田中くんは無理矢理奥まで突っ込んで射精するが、結果主人公は喉の嚥下運動がうまくできず、誤嚥性肺炎を起こしてしまう。この辺は私の父も亡くなるきっかけが食事をうまく飲み込めずに起こった誤嚥性肺炎だったので、本当にいろいろな意味で難病患者の体験というものは高齢者の体験に類似しているなと思うのだが、仕事として病院にきた田中くんが「死にかけてまでやることかよ」というのがこの小説を一言で言い表す言葉だよなと思った。

身体を壊しながら、死ぬ思いをしながら生きる。まあそれが生きるということなんだろう、みたいな感じと言えばいいか。

今書きながら原文を読み直して気がついたが、この作品では「田中くん」ではなく「田中さん」と書かれているのだよな。私の頭の中ではそれが「田中くん」に誤変換されていて、それはまあ「田中さん」の弱者男性性に感銘を受けたからなんだろうと思うので、この誤記はそのままにしておきたい。

昨日読了していろいろ考えていて、朝起きてから感想を書こうと思っていたのだが、ジャンプとスピリッツとヤンマガを買いにコンビニに車で出かけて運転しながら、山の端が朝日を背後にしてなんとなく神々しく見えるのを見ながら考えていたのは、なんかこの作品は宗教的な感じがするな、ということだった。人間の実存を抉り出そうとすればそれはある種の宗教性を帯びることはそんなに珍しいことではないけれども、この作品でそれを感じたのは、つまりはこの主人公が生きるということ自体が苦行なんじゃないかと感じたからだなと思う。

苦行というのは比喩ではなく文字通りの意味で、つまり苦しむことを自分に課す修行ということだ。地球の重力と格闘しながら本を読むのも、精液を飲んで誤嚥性肺炎で苦しむのも、「死にかけてまでやることかよ」なのである。

ラス前のシーンでテレビが壊れたことが書かれていて、これはどう読むのか難しいが主人公の死を暗示したとも取れる。それに旧約聖書のエゼキエル書の引用が12行続く。エゼキエルはユダヤ人たちがバビロンに幽囚された時代の預言者であり、内容は「最後の審判」の予告だろう。裁かれるものは誰か、滅ぼされるものは誰か。それは明確に示されないまま、ラストの場面になる。絶望というよりは希望のようにも読める。

ラストは打って変わってホスト狂いでソープランドに勤めてると思われる女子大生の仕事場面が描かれている。これは冒頭の風俗のコタツ記事と対比されているのだろうと思うが、この内容自体も実は主人公女性の描いた小説なのかもしれないし、というか、今まで主人公女性は死んでその長い話の反歌的なくだりなのかと思っていが、これも小説と考えた方が構造的にはうまく収まるなと思った。1億五千五百万の小切手ではなく首を絞めて通帳と印鑑を奪って捕まった、という話になっているから、これは最初わざと変えて幻惑性を持たせているのかと思ったのだけど、これも主人公女性が描いた小説と考える方が座りがいいなと思えてきた。

つまり、主人公女性はまだ生きていて、苦行=生きることはまだまだ続く、と解釈するのがあたりなのではないかと思ったわけである。

また、この話が宗教的な感じがするのは、フェミニスト文脈を駆使して主人公女性を造形していく一方で、釈華・紗花・Buddhaといった仏教的な表象が主人公女性の「名前」として用いられているし、自分の状態を「涅槃」と表現している一方で肝心のところでエゼキエル書を持ってくるという構造もあり、どれも信じていないけど全てを信じている、みたいなことを感じたこともあるだろうか。

ネットミームや風俗本・女子大生が主人公の風俗小説みたいな用語の使用はまあそういうものを読み慣れていないと読みにくくはあるが、少なくともフランス人が描いたこの手の小説(作者も題名も忘れた)よりは私には読みやすかったのは、コンプレックスなり性癖なりが自分に理解しやすいものだったからだろう。連中の性癖はちょっと私には理解できないと思うことが多い。

また、ペンネームの「市川沙央」というのも、歌舞伎の「市川」と「沙翁=シェークスピア」をかけたものなのかなという気もし、ある種の戯作や風俗劇としてこの作品を書いたのかなとも思ったりした。

まあ、いろいろ考えれば考えるほど達者な作品だと思えてくるし、性描写だ当事者文学だなどという批判も喧しいが、芥川賞作品としてはかなり深いところまで行ってると思うし、読む機会を持たせてくれたという意味では選考委員にも感謝したいなと思った。


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