「ブックストア・ハイ」/「正統とは何か」:狂人とは、理性以外のすべてのものを失った人/12使徒のペテロが漁師をしていた湖

Posted at 23/07/31

7月31日(月)晴れ

東京にいる。最低気温が27度を超えていて熱帯夜なのはもちろん、8時前なのに気温はもう31度を超えている。マンションの一室で冷房が一部屋にしかないので設定20度にしてガンガン冷やしていたら反対側の部屋なのに少し寒くなったので窓を開けたらすぐに熱風が入ってきた。

昨日は朝実家の方を出て特急で帰京したのだが、最初から隣の席に人がいて、甲府からは完全に満席なだけでなく立っている人もかなりいた。八王寺・立川でだいぶ降りて少しは空き、新宿を過ぎたらがらがらになったが、朝9時台のまだ東京に帰るような時間帯でない特急でこれというのはさすが夏休みの日曜日、ハイシーズンだなと思う。

東京駅の駅地下で弁当を買おうとしたら1500円くらいで鰻の乗った弁当を売っていたのでそれにした。JREポイントが結構溜まっているのでそれで買えたから実質出費は無し。丸善に行って本をいろいろ見たがチェスタトンの伝記が面白そうだったのだけど、とりあえずあとで買うことにして買わなかった。チェスタトンはかなり私と相性がいい感じなのでなるべく読もうと思うのだけど、昔に比べると読書パワーみたいなものが落ちているなあと思う。「推しは推せるうちに推せ」という言葉があるが、「本は読めるうちに読め」というのもまた真理だなと思う。このことばのもとは「光のあるうちは光の中を歩め」がもとだと思うけれども。

地元の駅で降りて家まで歩いたが、まさに熱帯というより灼熱。湿度が高い日本の猛暑はとにかく汗をかく。昔ヨーロッパに行ったときは暑いのに汗をかかなかったし食べるものが違うせいか体臭が変わった気がしたが、日本の夏は昔の夏をただ単に3割増ししたくらいの暑さだなと思う。

家に帰って郵便の整理など少しして、少し休んでからチェスタトン「正統とは何か」をもって神保町に出かけた。最近は日曜に神保町に行くことが多いが、これは繁華街に行くのは大変そうなので日曜でもあまり混まないところで行きたいところ、というと神保町になってしまうという感じ。

新御茶ノ水で降りて神保町交差点まで歩き、文房堂喫茶室に行ってみたが割と人がいたのでやめて、ボヘミアンギルドをのぞいた後東京堂で本を見ていたら割と気持ちが上がってきた。ブックストアハイというかそういう現象はあるよなと思う。ここで西脇順三郎が訳したエリオットの「荒地」を見つけて買おうか迷ったのだが少し高かったのでやめた。

そのあと書泉グランデに行っていろいろ本やマンガを見て回ったが、最近面白いなと思っていたアフタヌーン連載の「冥冥冥色聖域(メイメイメイショク・サンクチュアリ)」の1巻が出ていたから買った。これも頂き物の図書カードの残高が残っていたのでそれで買えたので、出費はない。

私は書店にも図書館にもよく行くのだけれども、「本屋には萌えて図書館には萌えない」のはなぜかと思っていたのだが、本屋は全てが売り物だから金さえ出せばどれでも手に入る、というのは大きいなと思った。図書館は期限付きで借りることしかできない。「気に入ったものを「自分のもの」にするという所有欲というのかフェティシズムに近い気もするが、そういうものがあるからだなと思った。

そのあと喫茶店でチキンカレーを食べたのだが、入った時には気が付かなかったのだが携帯でずっとしゃべってるおじさんがいて、カレーの味がしなくなりそうだったのでiPhoneでイエローモンキーの「砂の城」を聴くなどしていたのだがいい曲だなと思った。

あとはチェスタトンを読み、音楽を聴きながら時間を過ごしたが、基本的に耳に何か突っ込んでご飯を食べるのは気持ち悪いなと思った。

店が少し混んできたらおじさんも電話をやめたので、コーヒーはゆっくり飲めた。

店を出て靖国通り向かいのディスクユニオンに行ってLPレコードを探す。最近、盤質はBとかだけど面白いレコードが結構あるのに気が付いて探すのが面白くなっているのだが、昨日はバレンボイムがパリオーケストラでフランクの交響詩を振ったものが480円で売っていたので買ってみた。夜聞いてみたが、フランクの交響詩はあまり聞いたことがなかったので面白いなと思いながら聞いていた。

地元の駅で降りて貸しビデオ屋を少しのぞいた後、カクヤスでジム・ビームと水と柿ピーを買って帰った。

***

チェスタトン「正統とは何か」読んでいて面白いなと思ったことのメモ。「疑いのない真理は人間に原罪があることだけだ」とあってそうかと思う。つまり、日本人と彼らの違いは、(特に戦後の)日本人が基本的に性善説であるのに対し、彼らは性悪説なんだなと思った。だから心底意地が悪いことを彼らは割と肯定的に考えているのだなと思った。

ここでさまざまな「信念」「思想」について語られているのだけど、現代において最も特色のある思想はポリコレとフェミニズムなので、そのことを考える。フェミニストは概して「男が悪である」としがちだが、欧米のフェミニストはある程度は「女性の原罪」も前提にしているように思った。しかし日本のフェミニストは「女=性善」、「男=性悪」と決めつけているから理論に深みと広がりが出ないのではないかなどと考えた。

「猫の存在を否定する」と言う言葉が出てきて面食らったが、これはつまり自由意志の話なんだな恐らく。もう一度読み返したら「人間は猫の皮をはいで快感を感じる」ことをどうとらえたらいいか、という話で、つまりそれは原罪の現れの喩えとして言っているのだが、「神の存在を否定する」か「人間の意思はまだ神の意志と一致していない」と考えるべき(つまり自由意思がある)なのに、「猫(つまり原罪そのもの)の存在を否定する」人たちがいる、という批判をしているくだりだった。

人間は神に逆らうこともできるのは自由意志があるからだが、それは原罪の存在と密接に関わりがあり、この辺は「神さまと神はどう違うのか」でも扱われていた問題で、またこの本も読み返さなきゃなと思う。

20世紀初めに人間の原罪を否定する神学があったと言うのは初めて知ったのだが、近代の楽観主義が頂点に達した時代だったということなのかなと思う。

この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫にも鳥にも 我れはなりなむ

というのは仏教の輪廻転生思想がまだ本気で受け入れられていない時代の気楽さ(作者は大伴旅人)だが、現代日本人はそういう罪だとか因果応報だとか考えなくなっててそこら辺は原罪を否定しようとした20世紀初めのイギリス人に近いかもしれない。と少し思った。

「きちがいと議論をしてみたまえ。諸君が勝つ見込みは恐らく百に一つもない。健全な判断にはさまざまの手かせ足かせがつきまとう。しかし狂人の精神はそんなものにお構いなしだから、それだけすばやく疾走できるのだ。」というのは我々がツイッターでよく感じることだなと思う。そういう意味でチェスタトンはめちゃくちゃ面白いのだが、読んでるうちに「それ以上いけない」という気持ちになることは多いなと思う。

なるほどと思ったのは、「批評家の方が詩人よりずっときちがいだ。ホーマーは完璧に冷静である。」ということで、詩人が狂人と紙一重であるという考えをチェスタトンは否定する。

これは「人間の正気を保ってきたものは神秘主義である」というくだりにも共通するのだが、ここを読んでいた時には思わずコーヒーを拭きそうになった。つまり、「この世にはわからないことがある」という「薄明の余地」を常識人が認めてきたということで、紙一重の天才はその余地を認めない、ないし超えようとしているからそうなっている、というようなことを書いていて、これには大きく頷く部分があるのだよなと思った。

これはつまり、チェスタトンの有名な言葉につながる。「狂人とは、理性を失った人のことではない。理性以外のすべてのものを失った人のことである」というわけだ。現代社会には確かにこの手の人が溢れるほどいて、1世紀経っても人間は進歩してないなとは思う。

***

全然関係ないが、メモ的に。12使徒のひとりであるペテロはもともと湖の漁師だったわけだけど、死海には魚は棲んでないよなあと思いついて、どういうことなのかと調べてみたら、ペテロが漁師をやっていたのは死海ではなくガリラヤ湖だったことがわかった。こちらは淡水湖なのだそうだ。

それで疑問は解決したのだが、最近は水の流入量が減っていて、ガリラヤ湖も塩分濃度が上がって危機感が強まっているという話がなるほどなあと思った。

もともと塩分濃度が高い死海も、さらに流入量が減って塩分濃度は上がっているそうで、グーグルマップで見ると確かに埋め立てなのか干上がったのか昔より面積が減っている。死海は海抜が水面下400メートルくらいだから、アカバ湾から水を引く計画もあるという話もあるようだ。しかし塩湖と海では条件も違うから環境的にどういう影響があるのかなとは思う。

内陸湖の縮小はアラル海などが典型的だが、聖書の地でも同じことが起こっているのだなと思った。

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by Luke Peterson

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