たましいとかクオリアとか

Posted at 23/06/23

6月23日(金)曇り

いろいろと判断に迷う微妙なことがあってごちゃごちゃ考えたりしている間に時間がなくなってきた。

「神さまと神はどう違うのか?」のクオリアについてのところを読んでいた。クオリアというものがあまりよくわかっていなかったのだが、要は「花が赤い」という情報が神経に伝達されてきてそれを意識する時に生じる「赤い」という感じがクオリアな訳だな。意識の上に現れる現象というか。だから音がリズムとかメロディとして聞こえるのもクオリアなわけだ。それは「意識」に生じる現象だから物理的に測定することはできない。

それでああなるほどと思ったのは、「痛み」もクオリアなんじゃないかと。どのくらい痛いかはほかの人にはわからない、測定できないといわれてへえっと思ったが、「意識に起こっている現象」であったら確かに測定は無理だなと思った。特に慢性痛はもう急性期の痛みの原因となる炎症などが消えていても起こる。この辺の研究が痛み治療に役立つことができるといいのだがと思う。

また、ほかの人の不幸を見て心に「痛み」を感じることがあるけど、これもクオリアだ、と理解するとクオリアというものの意味がより分かる気がした。そしてだからこそ、こう言う意識に起こる現象を本当の意味で共有することはできないということもわかる。共振現象はあるが。ほかの人の見ている赤が、自分と同じような赤に見えているかどうかはわからない。

「意識やクオリアはどこにあるのか。脳の電気信号に過ぎないのだとすれば、アンドロイドが意識を持つことは可能なのか。」という問い。AI技術が進むとそういうところが本格的に問題になるかもしれない。

「覚醒時の意識内容=外界から受けた刺激に基づいて生じたクオリア」を「現実」と呼ぶならば、刺激を受けなくても生じた睡眠時の「夢」の方がより本源的・原初的なのではないか、という問題提起はへえっと思った。確かに考えてみると子供の頃は割と夢の中で生きてた気がする。多分胎児の時代にすでに意識の萌芽はあって、ある意味ずっと夢を見ているのが、生まれてしばらく経って現実の刺激に対応できるようになるのが物心つくということなのかもしれない。

クオリアは客観的・物質的な場所には存在せず、主観的・意識的な場所にしか存在しないので、その場所のことを「魂」と呼ぶことはできるのではないか、と。これは割と説得力があるように思った。

魂とは何か、という問題の次は私とは何か、という問題になるわけだな。「私」が死んだ後、魂が残るとしても、その魂が「私」と言えるのかどうか。

生きている間でも正気を失ったらその魂はどうなるのか。死んだら正気に戻るのか。バカは死ななきゃ治らないというが、死んだら治るのだろうか。

私は割と「意識は電気信号」派に近い、というか心は身体の一部、みたいに捉えているところが大きかったけど、意識という本人の意思以外では表現・測定できないものの存在というのはやはり電気信号に還元できないものを感じるし、心というものの実在感のクオリアも強いので、その「心や魂の謎」が少しでも解けていくと楽しいなと思う。

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