「ルフィが海賊王にならないOnePiece」/「神さまと神はどう違うのか?」:人を洗脳する「論理の強さ」/自分が信頼できる「正しさ」とは

Posted at 23/06/20

6月20日(火)晴れ

「梅雨の晴れ間」が続いている。これだけ続くと晴れ間という感じもしないが、明日以降ややぐずついてk来るのだろうか。前線は日本の南に停滞しているので梅雨末期にかけて北上するだろうと思うのだけど、どうなるのかはよくわからない。

昨日は朝早く家を出て施設によって母を乗せ、松本の病院に出かけた。何回目になるか、だいぶ要領もわかってきて、比較的渋滞の少ないルートも見えるようになったのでよかった。昨日は割と早く検査と診察が終わったが、少しゆっくり帰ったので施設に帰り着いたのは1時を過ぎていた。それから帰宅して昼食を取り、本を読んだりしてから出かけてツタヤに行ってマンガを何冊か買った。「TIEMPO」が次の17巻で最終、というのを知ってちょっとショックを受けたが、私は高校スポーツマンガは全国大会に優勝するまで描いて欲しいのだよな。「ドカベン」のように。「ハイキュー!」が優勝の前に終わってしまったのもなぜ?と思ったが、自分の中では全国優勝しないスポーツマンガというのは「ルフィが海賊王にならないONE PIECE」みたいな感じでどうも納得できない。今読んでる漫画で高校スポーツというと「忘却バッテリー」が残っているが、この作品は甲子園優勝まで描いて欲しいなと思う。過程を描くのはそれはそれでもちろん面白いしだから読んでいるのだけど、結果もちゃんと伴わせて欲しいなと。

と私は思うのだが、これは一般的な意見なのか少数意見なのかどちらなのだろうか。

***

「神さまと神はどう違うのか?」を読んでいる。キリスト教の神には「信仰の対象である神さま」の背後に哲学的な嗜好の対象である「全知全能で愛に満ちた神」があり、その存在を論証・確言するために膨大な進学的だけでなく哲学的思考が行われてきていて、その論理の強度があるということだなと思った。その内容についてはいろいろ思うところがある、というかかなり反感を持ちながら読んでいたのだが、ただこの「強さ」が西欧やアメリカに由来の様々な思想、時に有害な「思想の強度」を生んでいるのだなと思った。まあ例によってフェミニズムやポリコレ思想、LGBT運動思想を念頭においているわけだけど。

全能の神がいるのにこの世に悪があることの矛盾を「人間の自由意志の存在」に求め、この世の悲惨ももしそれがなければもっと悲惨になっていたという「最善世界仮説」というのもまあどうなのそれという感じはあるが、要はそのように神の存在を認めないことは許さない、みたいな押し付けの強い思想というか、のある意味での独善性の強さというのが西欧思想の真骨頂なのだなと改めて思う。

結局「全知全能で愛に満ちた神の存在」という考え方自体が間違っているのではないか、と八百万の神の世界の住人である私などは思うわけだけど、そういう前提を覆す考え方自体に対する反論も山のように用意されているということはわかるのだが、そういう論理はインチキ新興宗教が無信仰者を洗脳しようとする論理のシャワーと同じなんじゃないかという無意識の警戒感が働くし、自分自身がそういうキリスト教世界に生きているわけじゃないから無視すれば終わり、という面はあるのでまあいいのだけど、欧米で仕事をしている日本人たちとかにとってみればかなり大変な話なんだろうなとは思う。

しかしまあ、読んでいて思ったのはフェミニズムやポリコレ思想などの「自分たちの前提を疑わない態度」というのは我々にとっては不遜に見えるけれども、キリスト教世界においてはそのくらいの「強さ」がないと思想として認められない、ということではあるのだろうなと思う。その「強さ」は我々にとっては「悪い意味での強さ」にしか見えないが、彼らにとっては「必要不可欠な強さ」であるのだろうなと。

とりあえず第3章まで読んだのでそこまでの感想ということになるが、第3章の「神と存在の関係」についての議論はより哲学的な議論だからか、あまり押し付けがましくなくてまあ読みやすいと言えば読みやすかった。

「存在」というものを「何々は〜である」という形の言い方と「何々がある」という形の言い方がある、というのはなるほどと思ったが、つまり前者は「第2文型的な存在の説明」であり後者は「第1文型的な存在の説明」であると言えるかもしれない。前者はそのもの以外のものの影響からそのものの存在を説明するという言い方で、つまり最初に言った人がいてその人が「第一動者」と呼ばれるという考え方で、これは多神教になりやすいと。

後者の第1文型的な存在というのはなぜそれが存在するのか説明できないが確かにある、みたいな話で、近代の哲学者は自分自身を生み出すことができるから、という「自己原因仮説」をスピノザとかが言ってるのだという。ただそれ以前のトマス・アクィナスなどはもともとそれは自存する存在それ自体である、自分自身が第一動者であるものであり、それが神である、と考えたのだという。近代の哲学者たちがその考えを嫌ったのは多神教的になりがちだからということなのかなと思うが、私などは何がいけないのかとは思う。

「説明できないが確かにある」ものというのはつまりは「直観によってしか把握できないもの」ということなのかなと思うが、そんなものはいくらでもあると私などは思うし、いかに直観によってそれに到達するかということが人生を生きる意味だとさえ思うのだけど、まあそういう考え方はそんなに多数派ではないのだなと読みながら思った。

人間はよく感情で動くとか論理で動くとかいうけれども、前者はともかく後者も私はあまり信用していない。論理というのは、先に書いたように「インチキ宗教が人を洗脳するために使うもの」というイメージが強く、うまく結論に到達する場合もあれば変なところに迷い込む可能性も大きいというものだから、それだけを頼りにするのはとても危険だと思っている。この本の2章までに書いてある神学的・哲学的議論も論理のみによって到達しようとするところが強く感じられ、その辺がこれは無理、と感じる理由なのだろうと思う。

「哲学」というと公正中立なもの、みたいなイメージが割と強くあったのだけど、この本を読みながら思ったのは、全くそんなものではないのだなということだった。つまり神学や思想の論理的な補強に使われるのが哲学なのであって、「哲学は神学の婢女」という言葉は現代も生きているのだなと感じさせられたところが強い。そう言えばこれは「現代思想入門」を読んだ感想でもあった。

「正しさ」というものについてどういうものに基けばより信じられるか、信用できるか、みたいなことについて、自分の感覚を整理してみると、

「論理的な正しさ」というものは自分はあまり信用していない。先に述べたように話を聞いていると「新興宗教や極左セクトの折伏・オルグ的な暴力性」みたいなものを強く感じて反感を持つ、みたいなことが一つあって、でもまあもちろんそういう論理は自分でも使わないわけではないから、まあほどほどにしておこうぜ、みたいな感じはある。だから「論理的な正しさ」のみが信頼の源というわけには少なくとも自分にとっては行かない。

「感覚的な正しさ」というのは論理に比べれば信頼しているところがあって、つまり女性がよくいうような「ダメだからダメ」とか「嫌だから嫌」みたいな感じだが、それはまあ自分自身でも割とわかるところはあるし、まあ仕方ないよな思うところが多い。ただ、いろいろな思考をするとか何かをするかどうかみたいな時に「自分がそれをやりたいかどうか」「それが好きかどうか」みたいなことは自分に尋ねることはよくしているので、そういう意味では重視している側面はある。逆に言えば、「やりたい・やりたくない」以外に「道徳的強制力」を持って押し付けてくる宗教や思想、哲学というものが非常に夾雑物的に感じる、という理由でもある。

ただこれも限界はあって、要は自分の知ってることにしか「感覚」は持ちようがない、ということがある。感覚的に生きてる人が騙されやすいというのはそういうことで、知らないことを判断する基準がないということだろう。だから「客観性」や「論理」はそういう場面では使うべきであって、それが担保されない状況で決断を迫るのは悪徳商法的な良くないやり方であるからそこからは身を避けられるなら避けるべきだろうと思う。

その限界を少しでも広げるためには、つまりは「ものを知る」ことが重要だということになる。自分がいろいろなものを知りたい、少なくとも新しくいろいろ出てくるものに対してなるべく基本的な知識だけでも持ちたい、と考える大きな原動力の一つは、「なるべく感覚的に生きていたい」ということがあるのだなと書いていて思った。

「客観的・科学的・実証的正しさ」というものもあり、これはこれである程度・一定程度は信頼している。これは客観性の限界とか科学性の限界、実証性の限界というものが見えやすいから、そこまでの範囲では信頼できる、みたいなものであり、そこから先はある種の賭けがある、という前提がはっきりしやすいから限定的に信頼することは割とやりやすいなと自分では思っている。これは「コロナ対策にマスクが有効」みたいな話であって、最初から限界はあるなと思うけれども、ある程度は実証されていると言えると思うし、多くの人がよりそれに乗ることによってより実効性が高まるということでもあるから、まあ乗れる範囲で乗ろう、みたいな感じのことだ。

これはまあ、自分が歴史学という実証性を建前とするものを勉強してきたからということもあるかなと思うが、もともと科学みたいなものは「好き」なので、好きなものを信頼するという感覚的な部分も実際にはあるのだよなと思う。逆に論理的なものを嫌うから信用しない、みたいなところもある意味あるかなとは思う。

で、それら全ての正しさというものには限界があるなと思う。まあもともと、人間が完全に正しく生きる、ということは無理ではある(と少なくとも私は思う)のだが、それでもそれらだけではとても怖くて人生生きていけないなと思うのだけど、もう一つ正しさの基準はある。それは、先に書いたことと関連するのだけど、

「直観的正しさ」ということになる。これについては自分は結構こだわっていて、何かを考えていても最終的に「これだよな」みたいな「ピーンとくる」みたいなことがないとそれを結論にするのが難しい。しかし世の中は直観的に正しいかどうか見抜けないみたいなことはいくらでもある。それは「人間が決めた論理」や「人間が決めた正しさ」みたいなものが既にあるからで、その論理や正しさは自分が感じるものとは必ずしも一致しないし、決めた人の心の中や世の中でそれらが取引されている「正しさの相場」みたいなものは直観ではわからないからだ。この辺、自分には相場は難しいと感じる部分でもあるのだけど、逆に言えば直観でこれが正しいと思ったことは相場でもある程度はうまくいく場合もある。

まあこれは単純な話で「日本経済は回復するか否か」みたいな話で言えば、これだけどん底だから多少はマシになるし日本はこんなものではないと感じるから、そのうち相場は上がるだろう、その方が自分にも都合がいいし、また「どんどんどん底になる」という方に張るのは自分としても気持ちが良くない、ということもあってそれが一番はっきり反映するのは日経平均だから、それに連動した投資信託を買うのがベスト、というふうに考えたらとりあえず2倍以上にはなった、みたいな話である。まあこんなものは相場の勘とは言えないと思うが、ある種の直観と論理の帰結ではある。

まあ先に書いたように、自分にとって生きる楽しみの最大のもの、前に書いた言い方で言えば「人生を生きる意味」はそういう直観的発見(それが感動というものだと自分は思うのだが)みたいなものだ、ということはあるし、そういうことが起こりやすいのは「感覚的に生きる」という生き方であるなと思うので、その辺をできる限り追求したいという気持ちはある、ということかなと思う。

そんな感じで現時点で思ったことと考えたことを書いてみた。

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