黛敏郎「題名のない音楽会」/アフリカの狩猟採集民/日本のより良い未来を切り開くのは保守だと思う

Posted at 23/04/27

4月27日(木)晴れ

今朝は少し肌寒いけれども、気持ちよく晴れた。抜けるような青空。放射冷却で冷え込んだのだろう。最低気温は3.8度だから、それでもそこまでは寒くない。雨のせいか、花海堂はもう終わり、赤い石楠花が咲いている。紫陽花も、去年の枯れた花がまだついているので落としておかないとと思う。あやめも咲き始めた。五月の庭になってきた。

やることが多くて時間がいつもギリギリになり、いろいろなことが抜け落ちてしまって変なミスをいろいろしてしまったり困った状態なのだが、とりあえず頑張って連休までは動こうと思う。連休になったからといって暇になるわけでもないのだが、少しはやることが整理されてくるといいなとは思うのだが。

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また、整理していると興味の湧くものも見つけてしまうということもある。少し前に買ってちゃんと読んでいなかった黛敏郎「題名のない音楽会」(角川文庫、1981)。黛さんは現代音楽の作曲家だけれどもよく知られたように保守派の論客だった。この本でもそうした考え方について書かれている部分がかなり多いことにパラパラめくっていて気がついて、彼がどのような考えを持ちどのように道を歩んできたのかということについて読んでみたいと思ったのだった。

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「岩波講座アフリカ諸地域」所収の寺嶋秀明「狩猟採集民の世界」。現存するアフリカの狩猟採集民は熱帯雨林で生きるピグミー、東アフリカのサバンナのオキエクとハッザ、南部アフリカカラハリ砂漠のサン=ブッシュマンといった人々がいるようだ。いずれも現代では定住民、農耕民や牧畜民などとの交流で食料を得ている部分が多いようだが、いずれも少数ながら狩猟採集のみで生活している人々もいるようだ。狩猟採集は日々移動の生活だから、生活範囲が広い。しかし現代ではそこに農耕民が入ってきたり、政府が定住生活を強要して文化が途絶え、弱っていっている人々も多いという点においては、ネイティブアメリカン(アメリカインディアン)の実情などと比較できるし、漁労の権利などをめぐって政府と対立することも多かったアイヌとも共通した問題があるのだろうなと思う。

近代的な土地所有関係や権利関係と彼らの生業の必要とが折り合わないところは当然ながらたくさんあるわけで、特にサン族などはそれによって砂漠の灌木地帯に追い詰められながらも生き残っているというのが現状のようだ。こういうものは「何が正しいのか」というのは難しいところなのだけど、恐らくは生き方や考え方の点で学ぶべきところもあるようには思う。それを崇拝してしまうとインディアンの賢者が云々みたいなスピリチュアルまがいになってしまうが、彼らの生活を保護するとか近代的枠組みに当てはめるという上から目線でいかないで、知恵を学ぶということは必要なのではないかという気はする。

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このサイトでは基本的に政治的には保守という姿勢を出してきたけれども、結局は日本や日本人、ひいては人類がより良い未来を切り開くためにはどういう方向性が必要か、ということがより根源的な問題意識であるわけで、私としてはそれはリベラル・進歩主義・設計主義の方向には破滅が待っているだけだという考えがあり、より漸進的な、保守的な考え方のみがそれを可能にする、と考えているということなので、逆に保守を名乗ると敷居が高くなるなら特にそれを看板にする必要はないなあとも思う。より共感が得やすい形で今後は書いていこうかなと思っている。

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