仕事場を片付けること/「岩波講座世界歴史アフリカ諸地域」が面白い:非定住無文字社会の歴史をどう編むか/植民地も国民国家も西欧的枠組みであることは同じ

Posted at 23/04/24

4月24日(月)晴れ

昨日は10時ごろ寝たのだが、3時半頃に目が覚めて、入浴したりいろいろしながら5時過ぎに家を出てセブンでジャンプ・スピリッツ・ヤンマガを買った後仕事部屋に戻る。昨日は午後なんとなくぼうっと過ごしてしまったということに気づき、岡谷日本を見るのと夕食の買い物に出かけて、帰りは諏訪湖の南側を回って帰った。だいぶ日が長くなってきたので、こういう夕方のドライブも楽しい。FMでサカナクションの人の番組を聞いてて、いろいろいい曲がかかっていたが曲名は忘れてしまった。

夜は職場に出て休みだけれどもいろいろ片付けなどした。休みの日に職場に出るのが億劫であまり片付いていない状態になっていたので、一念発起して本棚から片付けにかかったが、いろいろ出てきてまだまだこの仕事でもやることはあるなあという気持ちになる。今の仕事とものを書く仕事はきちんと力を入れてやっていかないといけないなと思っていたが、仕事場を片付けることはその第一歩だなと思った。

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「岩波講座世界歴史18アフリカ諸地域」読んでいるが、面白い。アフリカ史研究をめぐるさまざまな問題と現状を概観した永原陽子「世界史の中のアフリカ史」につづき、アフリカ史の方法論について述べる松田素二「アフリカ史の挑戦」を読んでいる。「世界史の中のアフリカ史」もかなり面白い、というかアフリカ史を見ることで世界史における日本史の位置も再考することができるという意味で、かなり面白いと思った。ジェンダーとか家父長制の考え方や奴隷制度についても、西欧基準というか従来の歴史学の常識のようなものとアフリカのそれはかなり違うし、西欧的な偏見や決めつけによって理解が阻害されている面が今まで多くあり、その辺の見直しが図られているということについては実際我が意を得たりという感じで、日本史についてもそのような観点から見直していかないといけないと思った。

そして大きいなと思ったのはアフリカの人々の多くが何世代かのちには移動していくことが普通、というか珍しくないらしいということ。近代社会になってからはもちろん日本でも移動は頻繁になっているし、江戸時代にも都会に奉公に出たり部分的には移動ももちろんあったわけだが、氏族全体がふいっと移動してしまうアフリカ世界というのはやはり他の世界にはない特徴があるのだろうと思った。もちろんアジアの乾燥地帯の遊牧民族などの例はあるけれども、彼らは徒歩で移動するようだし、遊牧民ではなく農耕と製鉄の技術を持ったバントゥー族の大移動のような例もある。ヨーロッパや中国でも古代から中世には民族移動は珍しくはなかったが、やがて定住して都市や農村を建設するのが当たり前の「進歩」のように考えられていたわけだから、今なお移動が当たり前の人々が多く住む地域に、定住を当然の前提とする領域的国民国家を建設することはとても困難だと思うし、また植民地支配にも不適だったことから民族の習慣を変える政策が強行されて、現代のアフリカ社会になってきているということのようだ。こうした近代国家とアフリカの伝統のせめぎ合いの中で民族対立や近代兵器が持ち込まれることによる内乱のようなものが頻発しているのがアフリカ世界の現状のようだ。

だから基本的に彼らは西欧的な発展段階的な歴史観や定住を前提とした国民国家の思想、あるいは社会契約的国家観を前提とした人権思想に収まらないものを持っているわけで、そうしたものを普遍の原理として押し付けてくる欧米的な価値観に反対するのも無理はないかなと思う。この辺りのところはまだ一概には言えるかどうかはわからないが、ロシアや中国がそれに拘らない近づき方をしてくるのが「国」という枠の中での主導権を握っている民族にとって採用しやすい、ということはあるのだろうなと思う。

非定住民というのは日本にもいたわけだし、世界的に見ても珍しくはないけれども、社会全体がそれを前提としてできているという点では、遊牧社会やアフリカ社会は西欧近代的な枠から外れているということは言えるだろう。

そうした社会、また文字がない社会における歴史を構築する試みはどうやったらできるのか、という方法論について述べているのが松田素二「アフリカ史の挑戦」なのだけど、今読んでいるところでは口承伝承を使った方法について書かれている。西ケニアのあるグループの聞き取りの結果、曽祖父の代に別の場所から移ってきたことがわかると、今度はその元の場所に行ってまだ残っている人たちに話を聞き、その移住がどの時期に起こったかを推定する。驚くのは、このグループがバントゥー系のルィア系のマラゴリ民族に属しその言葉を話しているが、移住前にはナイロート系のルオ語を話していたのだという。民族アイデンティティも言語も全く違うものになっていても、先祖のことは口承伝承で残っている、というわけである。

確かに日本の移民を考えても、現代でもアメリカ移民の4世はまず間違いなく英語を話すし、ブラジル移民の4世はポルトガル語を話しているだろう。もちろん在日朝鮮韓国人も4世になるとほぼ日本語しか話さないだろうし、それでも日系人、あるいは日系アメリカ人・ブラジル人という意識は持っているだろう。

日本においてはそういう状況は比較的少数の人たちの問題だが、アフリカではかなり多くの人々がそういう生活をしているということになるのであれば、「植民地」も「国民国家」も西欧的理念の枠組みに基づいたものであるという点では一緒で、アフリカ人の一般的な生活には適合しないものということになる。

実際、こういう社会においては「先住民」という概念自体があまり意味がないわけで、アフリカ諸国は国連がそういう決議をしていることに消極的で、時には反対もするというのは「植民・先住民問題の西欧的解決」についてもアフリカの現実にうまく適合しないということになる。

国民国家の形成の理解についてはアンダーソンの「幻想の共同体」が一つの画期になってはいるが、どの地域もその当ては目がうまくいくとは限らないわけで、特にアフリカについては幻想の共同体を成立させることそのものがかなり難しいのが現状なんだろうなと思った。

逆に言えば日本という国がなぜ国民国家が自明であるくらいのものになったのか、他の地域においては国民国家の形成についてどのような困難があり、その解決策の中に現代の日本でも適用可能なものはないかなど、いろいろな問題意識が設定できるなと思う。

アフリカへの「援助」というのは西欧的な理解の枠組みから出発するものだが、というか現状そうなっていると思うけど、「アフリカから学ぶ」ということはそういうものを前提としないでも学べるわけで、日本の中の非近代西欧的な部分とアフリカのある部分は共鳴可能な部分があるのではないかという感じも持った。


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