本質とトレンド・不易と流行/西アフリカ諸王国と金の産出地/「2.5次元の誘惑」:「アーティストは愛することから逃げられないんだ」

Posted at 23/04/29

4月29日(土・昭和の日)晴れ

今日は連休初日で、祝日と土曜日が重なった。普段の土曜日ならやっているお店も祝日だからやってない、というところもありそう。昨夜報道ステーションを見ていたら嬉しそうな女子アナウンサーが空港やバスタの人の動きを伝えていたが、とりあえずそんなに動けない身としては「コロナ明けの連休」というウキウキ感はほとんどない。連休というのは普段平日に開いている施設が閉まったりして逆に不便な感じの方が強いのだが、まあつまり日本は概ね「勤め人を中心とした社会」になっているということなんだなと思う。ホテルなどの観光業は書き入れ時だし、そういう雰囲気の盛り上げもありがたいのだろうなと思う。私の実家の街は観光地でもあるので車が増えたり駅が混んだりするのはむしろ迷惑感もあるのだが、まあそんなことを言うのも野暮というものだろう。

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グローバルサウスとか新しい言葉がいろいろ出てきて「今の世界」が語られて行くのだが、「今の世界がどういう世界か」ということを語るのは「こういう世界だ!」と断言するある種の軽薄さとある種の潔さ、そこから逃れられないという意味での重さ、みたいなものが折り重なって存在しているなと思う。私などはそんなに「今の世界だからトレンドだからどうたら」ということは考えない方だが、否応なくそういうことに気づくこともあるし、ただハメルンの笛吹のようなマスコミや世論に踊らされているだけ、と思うところもある。こういうものの捉え方がどこまで正しいのかは、なんというかよく分からないし、勘みたいなものも今はそんなに働かない。

こういう流れというかトレンドのその先が読めて、それに乗れるような才覚があるともっと上手くやれたなと後になって思うことは多々あったが、本質を掴めるか掴めないかというのはそんなに簡単なことでもない。

「今の世界はどういう世界か」を掴むというのはつまり「不易流行」の「流行」の部分で、これが掴めないと致命傷になる場合もやはり多々ある。しかし今、「アフリカ史」とか「音楽の起源」みたいな話を読んでいると、変わらぬ本質、つまり「不易」の部分が掴めてこそ、「流行」にも乗れるのではないか、みたいなことも思ってしまう。実際には、上手く軽薄なまでな行動力でどんどん波に乗って行くことの方が大事なのかもしれないのだけど、そういうことも面白いと思いつつ「本質が掴めない怖さ」みたいなものが自分の中に根源的にあるようで、流行に乗ることに振り切れない自分がいたなと振り返ってみると思う。

だからと言って現在のところ、そんなに本質が掴めたというわけでもないのだが、これも「悟り」とかと同じで一度悟ったら全部オッケーというわけではなく、「悟りがだんだん深まる」みたいなことがあるんだろうと思うし、昔に比べれば本質みたいなものがより深く理解できている面はなくはないんだろうと思う。しかし主に体力園で昔のような余裕は無くなってきていて、その辺で厳しいと思うことも多く、本質が掴めたら全部オッケーというわけにも行かないのは大変だ。

特に変化が激しい現代では新しい変化について行くのがデフォルトで、少し油断たり回り道したりしていると気がついたら周回遅れということもとても多いし、それについて行こうとする途中で本当はすでに流れが変わっていて、追いかけて行くべきものは別なものになった、ということも頻繁に起こる。

本質を追求するということは逆に言えばその期間は自分をトレンドから切り離さざるを得ない面はあり、そうなると上手く波に乗り続けることはできない。しかし本質を追求する部分がないと、歳をとってから厳しくなる面もまたある。波に乗るのには若者に敵わないし、年寄りが持っているべき知恵のようなものもない、となったらなかなか居場所の確保が難しくなる。

まあ不易にしても流行にしても、どの界隈におけるそれか、みたいなことに寄って考え方は結構違ってくる。自分の観測範囲はそんなに広くないのでトレンドが掴みにくい部分は多いのだが、まあいろいろ見たりしながらやって行くしかないかなとは思う。

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「岩波講座アフリカ諸地域」は寺嶋秀明「狩猟採集民の世界」を読み終わり、坂井信三「トランスサハラ交易と西アフリカ諸国家」に入った。この分野は高校世界史などでも少しは取り上げられている分野で、私が受験した共通一次試験でも「マリ王国」が出題されていた。そういう意味でそれなりに今まで読んできたものの中でも南部アフリカに比べれば多少は馴染みのある分野ではある。

マリ王国といえばメッカ巡礼の際黄金を使いすぎてイスラム世界の金の価格を下げたと言われるマンサ・ムーサのエピソードが有名だが、「黄金の国ジパング」もそうだしエルドラドの伝説もそうだし、19世紀カリフォルニアのゴールドラッシュもそうだし、欧米人は金が好きだなと改めて思ったり。

しかし金が産出するのは現代のマリ共和国のあたりではなく、ガーナとかブルキナファソ(オートボルタ)とかナイジェリアだということを知って、つまりは砂漠でもサヘル地域でもサバンナ地域でもなく、むしろ熱帯雨林に近いところで金が出て、その場所をアラブなどの略奪者から隠していた面もあるらしいこととかを知って権力構造や交易構造も思ったよりずっと複雑だったのだなと思った。

これからおそらくガーナ・マリ・ソンガイなどのサハラ以南の諸王国、ベルベル人のムラービト朝とかムワッヒド朝、あるいはモロッコなども出てくると思われるので、名前は知っていたけどそれ以上には知らないというような国々についてもう少し知識を得られるのは楽しみだなと思っている。

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2週間に一度更新されるジャンプ+の「2.5次元の誘惑(リリサ)」だが、今朝(4月29日)の更新の137話「色なき世界」はとても良かった。

漫画・アニメ「リリエル外伝」の主人公・リリエルのコスプレでROM写真集を作ることを目指し、「コスプレ四天王」の淡雪エリカ(二人組)の協力もえて神秘的な森の中でのロケの撮影にきた奥村とリリサ(と漫みかりら研部員たち)だが、自分たちの思うような写真が撮れずに悩んでしまうリリサと奥村。一旦頭を冷やせと言われて一人で散策をする奥村のところにエリカが現れ、なぜ上手く撮れないか、という話をする。前話では「君のリリエルは濁っている」と厳しい指摘をする一方、みかりの写真はとてもよく撮れていることを指摘し、「君は愛した被写体を完璧に撮れる能力」を持っている、君はみかりちゃんのことを好きなんじゃない?」というところで終わった。

この作品は「みかりとリリサのヒロインレース」みたいな側面もあるのでその観点からここでタイムラインでは「みかりルート確定」みたいな盛り上がり方をしていたわけだけど、今話ではそれを落ち着かせ、本来の「なぜ上手く撮れないか」という話が語られていた。

以下、ネタバレなのでその辺りが気になる方は先に以下のリンクから読んでいただきたい。

https://shonenjumpplus.com/episode/4856001361175607915

ここでエリカは「好きだ」とか「愛する」ということが「浮気した母に捨てられたトラウマ」から分からなくなっている奥村に対し、「好きになることは罪、ないし悪いことではない」と言い、「アーティストは愛することから逃げられないんだ」という。この辺りの指摘はなんというか真剣勝負のアート論が展開される。

リリサを好きになってはいけないというブレーキがかかっていることがうまく行かない原因なら、リリエルとリリサを分けて撮るか、でなければ「自分の気持ちに嘘をつくのをやめればうまく行くはずだ」という。最初から一択が分かりきった問いなのだけど、前者をいうことによって後者を取ることの背中を押すという役割があるんだなと読んでいて思った。「だって君たちはどう見たも最高のコンビだからね」と。

君には才能があると思う、だから他者を、この世界を愛することを知ってほしい、自分も愛されることでなく、愛することで救われたから、というエリカ。最初は嫌だったけどユキに言われてよく見ているうちに好きになった対象がみかりだった、というのは微笑ましいエピソードなのだけど、「この世界は美しい、人間は素敵だ、心からそう思えたなら君が描く世界には色が灯る」とエリカに言われている奥村の背景が美しく彩色された森の描写になっているのはマンガならではの表現だ。

それを受けて「俺のフィルターが輝いた瞬間、あれが「好き」という感情だったのか」と理解する奥村はやはり「国語の成績がいい」と思うのだが、この辺りはものを作ったことがある人間なら本当に感激、あるいは感慨のある展開だったなと思う。

エリカのいうように、感動したことを完璧に表現できると良いのだが、なかなか難しい。次回更新は5月27日なのでかなり先だが、その間にはコミックス17巻の発売もあり、首を長くして待ちたいと思う。


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