社会意識の液状化的崩壊と保守

Posted at 23/02/05

2月5日(日)晴れ

晴れているのだがまだ空があまり明るくない。時刻は7時だが、こんなに暗かったっけとか。気温はマイナス4度。寒いことは寒いが、諏訪湖が凍るほどではなくて、昨日の立春についに「明けの海=御神渡りは起こらなかった」が宣言された。私の高校時代にはマイナス23度とかまで下がる日があったが、今年は下がってもマイナス10度くらいなので、まあ温暖化はしてるのだろうなと思う。

昨日は考えることが多かったせいか、コーヒーを飲んでたら胃の辺りがおかしくなってしばらく調子が悪かったのだが、夜も早めに寝たので6時間半くらいは眠れたからか、だいぶ楽になった感じはする。柴田英里さんが書いているフェミニズムについての論考が「実話BUNKA超タブー」という雑誌に掲載されているということで書店やコンビニを何軒か探したのだが、見つからない。今日また一軒行ってみようと思うが、こういう部数の出ていない雑誌は発売と同時にKindle化すれば良いのにと思う。まあいろいろと事情はあるのだと思うが、書店状況がいい場所に住んでいる人ばかりではないのだし。

振り返ってみると今週は保守という問題についてあまり書いていないなあと思う。実際のところ、家も国も神も仏も存在が曖昧になって、何を守るのが保守なんだろうという感じがある。デカルトは全てを疑って最終的に残るのは自我であり「われ思うゆえに我あり」という結論に達したが、保守というのも最終的には何を保ち何を守るべきものであるのか、考えないとと思う。

進歩はリベラルの設計主義は要はまだこの世にないものを出現させて社会を進歩させるという感じのプランだが、保守の方は今あるものをなるべく大事にしていこうと言う考えであることが多いと思う。こうした中でコロナなどにより葬儀等の儀式の簡略化が進み、人が集まることを前提として成立している社会自体のあり方が変わってきていて、特に形式的な面が重視されて生き残っていた様々な儀礼などが、形式より実質(感染予防)の名の下に縮小させられてきている感じが強い。

これはそう言う儀礼だけでなく、さまざまな面で形式的なものが省略されつつある。これはIT化などの影響も大きいと思うが、そう言う形式に縛られなくなることが自由だと思う人が多いからだと思うけれども、逆に「食べ物屋では悪戯しない」みたいなことまで形式化し、迷惑行為が起こったり、昔は当たり前の道徳みたいなものが、たとえば「お年寄りは大切にする」と言う建前が形骸化して「年寄りウゼー」と言う「実質」が優先してきていると言うような感じもある。

保守が本来やるべきことはこう言う社会意識の液状化的崩壊というかそういうものを防ぐことだと思うのだが、多方面で一度に崩れ始めているので追いついていない感じがする。コラボ問題などもそういう意味では氷山の一角なのだと思うのだが、そこに戦力を集中してしまっても別のところでの崩壊は抑えられないんだろうなと思う。

国全体にしても安倍さんや菅さんの時代のある種の「固さ」によって維持されていたものが岸田さんの「やわらかさ」によって崩壊しつつあるように思うし、また安倍さんの時代にもそういう液状化は実は進んでいたんだなと思わされることも結構ある。

古いものの崩壊を嘆きつつ今あるものをせめて守ろうという感じが藤原定家やトゥールのグレゴリウスには感じられるわけだけど、新しいものを生み出しながらも古いものを大事にすることもやっていかないとと思っている。こころの中の問題はだいぶ重要なんだろうな改めて思う。

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