日本の誇りとは何か

Posted at 23/01/13

1月13日(金)晴れ

本当に毎日よく晴れる。それでも移動性高気圧が去れば流石に天気も崩れるというものか。今朝の最低気温はマイナス4.9度、この時期の晴れた日にしてはあまり下がらなかった。南の暖かい空気の影響があるのだろうか。

昨日Twitterを読んでいて一番強く印象に残ったのはこちらのツイートだった。

https://twitter.com/konoy541/status/1613076569505038336

「明治30年代の国粋主義以来、日本のナショナリズムの拠り所の一つは「美」で、文化政策はむしろナショナリズムそのものといっても過言ではない(国粋保存)ので、東博の件はむしろ右側が怒んないといけないやつなんですよ本来ならば。」

これは実際その通りで、つまりは日本人は一体何を「日本の誇り」としているのか、ということが見えなくなってきているのだなと思った。

横山大観から風呂屋の書割まで富士山が描かれるのは富士山を見れば落ち着くとかそういう問題ではなく、「日本一の富士の山」こそが日本の誇りであり、それを描くことは日本を誇ることであったはずだと思う。そういう意味では富士の描写にはある種の気負いが感じられることが多い。それはつまり富士は「日本一」であることで「日本の象徴」であり、つまりは「日本の誇り」だから、ということだろう。

この辺りはちゃんと分析しているわけではないのだけど、国学による日本意識の再生と葛飾北斎の「富嶽三十六景」の企画は無縁ではないような気がするし、源氏物語や古事記、万葉集など「日本独自の文学」が商用されたのは明治に先立ってのことだから、そういう意味で「文化こそが日本の誇り」という面は大きかったと思う。

明治以降の富国強兵・殖産興業の波の中で日本は近代化し、産業国家となり、軍事強国ともなったわけだけど、一旦ご破産になった第二次世界大戦の敗戦によって、まず人々が最初に考えたのは「文化国家としての再生」だった。つまり、「国破れて山河あり」というけれども、多くの人々には「国敗れて文化あり」という考えがあったということだと思う。

「木簡を読むことが仕事として成り立つのは日本の経済が支えているからでそっちは優先されるべきではない」という官僚らしき人の言説に私は強い違和感を持ったけれども、今日本で右と言われる人たち、少なくとも私のタイムライン上に現れてくる人たちは「文化」というものに拒否感情を持っている人がかなり多いなと思う。私の中での文化に対する原点の感情は、敗戦後のお金が乏しい中で中学生から大人まで登呂遺跡の発掘に関わり、お昼に出るスイトンが水っぽくて、「登呂名物のスイトンはトンなくてスイばかり」という戯言を言っていた、というような話であって、どんなにお金も物もなくても文化に対する情熱は持っている、というような物なので、それを罵倒するような表現はどうかなと思ったということがある。

もちろんこの官僚らしき人や彼彼女の言を支持した人たちはそういう「情熱」を揶揄したり冷笑したりする意図があったというわけではなく、「一円にもならない木簡読みで生活できるなんていいご身分ですね。そのお金はどこから出てくるのか知ってますか?」と言いたいのだろうと思うけれども、そういうことが文化の軽視・冷笑に、ひいては「国粋」つまりは「日本の沽券」「日本の誇り」まで冷笑することになると考えが及ばないところに違和感を持ったのだなと思う。

つまり、官僚などというものは一番に日本の利益、日本のプライド、日本の国力、日本の誇りを第一に考えて行動すべき人たちなのに、そこにそんな狭苦しい考えを持っているということに大変残念な思いを持ったということなのだ。

ということは逆に言えば、「文化が日本の誇りだ」という教育をしっかり受けていない、あるいは受けていてもそれが逆効果になっている、ということなのだろうと思う。

私が先年亡くなった四代目坂田藤十郎(中村扇雀の方が馴染みがあるが)の「曽根崎心中」の1000回目の公演が歌舞伎座で行われた時に見に行ったことがあるのだが、その時併せて上演されていたのが日大の創立者・山田顕義を扱った新作歌舞伎で、そのためか日大附属の小中高生らが客席のかなりの部分を占めていて、全く関心のないざわめきが最初から最後まで途絶えず、変なところで笑ったりして、S席の料金を返せと言いたくなるような状況だった。

まあ彼らも関心のない歌舞伎を見せられるのも災難だったかもしれないし、上演側にとっても客席が酷くてもお客さんが入ってくれたという面は良かったのかもしれないが、たまたま同じ劇場内にいて上演を楽しみにしていた一観客としてはこれ以上の災難はないという感じだった。

こういうのがまさに「古典教育の逆効果」というようなものなのだろうと思う。

戦後の教育は基本的に文化教育と愛国心を切り離しているから生徒としてはなぜこれを学ばなければいけないのかが今ひとつ理解できない。私などは愛国心と切り離してもそういうものが好きだから、発端はそういうものについて学んでいきたいという動機があった部分はなくはないが、見ていたら好きになったという部分も大きい。そういう人間にとっては問題はないのだが、そうでない人たちが日本の文化を尊重するには、「それは日本の誇りだから」というものがなければ心に届かないと思う。

結局のところ、「木簡を読む」人たちも、「文化の意義は」とか「世界では」とかいうのではなくて、「私たちはひいてはお国のために木簡を読んでいるのだ。何か文句があるか」と本当はいうべきなのだと思う。

文化の当事者たち自身が、要は個人的な好き嫌いでそれに従事しているから説得力が弱いのであって、「自分たちは税金を使って仕事をしている以上、日本のために貢献している」と言い切るべきなのだと思う。

岸田内閣が発表した大学のこれからの構想においても、理系学部を充実させるということが言われて、それはそれで必要なことだしそれは国力に直結する問題だから今まで疎かにされてきたこと自体が問題ではあるのだが、文化もまた国の死命を制する場合もあるのだということを改めて喚起したいと思う。

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