人間の顔をした保守主義

Posted at 23/01/11

1月11日(水)晴れ

いろいろ言っているうちにどんどん日はすぎていき、もう2023年(令和5年)も11日目に入った。昨日は仕事でもだいぶ平常運転に戻ってきた感じ。それにしてもいろいろなんとかしたいことはあるのだが、「コロナ禍だから」ということでできない、制約のあることはいまだに多いのだよね。完全にコロナ以前の状態に戻るのがいつになるのかわからないが、人の生活様式というものにまで相当影響を与えたよなと思う。

「人間の顔をした社会主義」という言葉があるが、これは「プラハの春」、ソ連軍に圧殺された1968年のチェコスロヴァキアにおける民主化の動きのことだ。つまりこれはソ連による衛星国支配、衛星国における社会主義の実態が非人間的なものだった、ということを意味していて、そうでないより自由で民主的な社会主義の実現を、というスローガンだったわけだが、そこにあるのは「人間らしさ」に対する敬意であり、その「人間らしさ」というものを考えてみると、人が生きてきた歴史において幸福だった記憶のようなものと結びついているわけで、その意味において本来保守性を持ったものだろうと思うし、だからこそブレジネフはプラハの春を潰したのだろう。

「人間らしさ」とか「保守主義とは人間らしく生きることである」というテーゼについて考えていて、そういう意味で言えば「人間の顔をした保守主義」というのは畳語っぽくなる可能性はあるなと思うのだが、例えばリベラル派にとって家父長制というのは非人間性そのものという主張の象徴のようなものだから、そうではないのだ、という意味で「人間の顔をした保守主義」というのは言葉としての意味を持ち得るなとは思う。

私自身、家父長制が正しいかと言えばなかなか難しいというか、現在のように家父長制が概ね解体した現状において、その復活を求めてもそんなに意味があるのかという気はするのだが、家族や家庭の概念にまで否定的な向きがあることを考えれば、「家」とか「家制度」みたいなものに対して肯定的な意味合いをつける必要はあるかもしれないと思う。

「家」はその構成員を守るものであり、育てるものであると思うし、皆で盛り立てていくものでもあり、巣立っていく人もあれば新たに迎えられる人もいる、そういう社会の基礎単位の一つだろうと思う。日本の現在の家族制度は「夫婦関係」を基軸とし、結婚によって新たに戸籍が編制される仕組みになっているわけだが、家そのものはもう少し融通無碍である感じがするし、核家族と緩やかな大家族の二重構造になっていてもいいだろうと思う。むしろ離婚などが多い現在の状況を考えれば祖父母が孫を育てたり、祖母と娘と孫という家族形態もあるし、祖父と息子とその娘といった家族形態もあったりするわけで、同居別居もまたさまざまな形態があるわけだから、むしろそうした緩やかな大家族を保護するような法制度があった方がそうした関係をフォローできるかもしれないと思ったりもする。もちろんそれを悪用する人たちもいるだろうから法制化に慎重さは求められるけれども。

同性婚などもその枠の中で実現することも不可能ではないような気はするが、現在の同性婚を進める方向性の中には家族制度そのものに対しては否定的な思惑が感じられるのであまり賛成できない感じがある。大家族から核家族、単身家庭までそれぞれが緩やかに認められる感じになると良いと思うのだが。

まあそういう感じで「保守主義=家父長制=悪」みたいな単純な理解構造を崩していくためには、「人間の顔をした保守主義」という概念は訴求力があるかなと思ったのだった。

もちろん「人間の顔をした」というのは家族制度のみに関する話ではなく、社会制度や国家制度、国際関係にまで及ぶわけだが、そこは儒教主義やキリスト教国際主義等との関係も出てくるので今回は検討しない。


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