「氷の城壁」読了:「高校2年生」というある種の完成された世界/「頼山陽の思想」:華夷秩序という人格による差別/目付制度と君主への諫言

Posted at 22/12/01

12月1日(木)晴れ

早いもので今日から12月。11月はいろいろがたがたしていたし、12月も例年のやることがたくさんあるので早めに片付けていきたい。

氷の城壁

一昨日から昨日にかけて阿賀沢紅茶「氷の城壁」を全117話一気読みしたのだが、とても面白かった。デバイスでの縦読みマンガというのは以前はあまり馴染みがなかったが、田中空「タテの国」でだいぶ見慣れていたので、今回は特に抵抗なく読むことができたのだが、好きなマンガは紙の単行本で読みたい方なので、単行本になかなかならない縦読みというジャンルがあまり主流にならないで欲しいなという気持ちはなくはない。描く方にとって幅は広がるとは思うのだが、実際のところは描き手にとってどのような感触なんだろうか。

https://shonenjumpplus.com/episode/10834108156642491399

現在ジャンププラスで連載されている「正反対の君と僕」もそうなのだが、ラフに見えて細かい描写がしっかりしていて、自然に目が止まる繊細で美しい(と言っていいのか)描写のコマと、登場人物たちの頭の中、思考をそのまま文字にした文字列。それを読んでいると、まるで自分の心がそう独白しているような感じになってきて、その世界に引き込まれてしまい、登場人物が本当に今の日本のどこかに実在するのではないかという気持ちになってくる。「正反対の君と僕」はまだフィクション性が高い気がするが、それでもコンビニで知っている人に出くわす展開とかはなんというかリアリティがあり、その人たちが本当にそこにいるんじゃないかという手触りがある。

「氷の城壁」は女性マンガというジャンルに入っていることもあるのか、主人公の氷川小雪(親が離婚する前の旧姓は結城、仲間内でのあだ名は「こゆん」)はほとんど母が家にいない状況でコミュニケーションが苦手なタイプなのに、また設定としては地方都市の郊外住宅団地という場所に住んでいるのに私服は基本おしゃれで、コミュニケーションの苦手さで読んでいてハラハラするところがあるのに私服を見てなんとなくホッとする感じがあるのは、元々がフィクションだから当たり前なのだけど、「映画の嘘」「舞台の嘘」的な華やかさが作品に彩りを添えているのだなと思う。コンビニに出かけて元彼に出くわしてしまう場面とかは二人とも部屋着(おしゃれジャージ?)でそれがまたお互い溜まっていたものをぶつけ合ってスッキリする展開にふさわしい感じもしてそういう感覚がいいなと思う。

こゆんがシリアス性の低いコマではちみキャラみたいになってるのが「2.5次元の誘惑」の「もちもちした」ノノアみたいだなと思ったのだが、「2.5次元の誘惑」でその場面が出てくるのは関係が安定してからで、「氷の城壁」でもそうなので、基本的に安心して読んでいられる感じにはなる。逆にいえば「安心して読んでていいですよ」というサインなんだなと思った。

この話は高校1年生の2学期の終わりから2年生の3月までの1年ちょっとを描いているのだが、最初に「氷の女王」と周りに恐れられていた周囲に壁を作っている小雪が、さまざまな人との関係の中で壁が壊れていき、最後にその雰囲気をすっかり変えて優しい穏やかな感じになるまでのストーリーというある種完結した話になっているのもコンパクトな感じがして良かったなと思うし、ああやはりフィクションなんだなとも思う。

途中のある程度エグい展開になるところでは「NANA」を思い出すところがあったし、後半部分の充実した高校生活の描写の中で二組のカップルの仲が進展していくところは、「高校生活の頂点」みたいな感じがした。高校3年生というのは進学校では高校生活よりも受験が優先になって高校生活のラストがなんとなくはっきりしない感じになるけれども、受験前のところで終わりになったのはそこで一つの世界が完結した感じがする(受験はあたらしい世界への扉になるので次の展開の準備という感じが強いから)のは上手だなと思った。

私は小学校6年から中学校1年になるときに、「子ども界のトップ」から「中学生世界の底辺」に世界が変わった印象を持っていて、6年生というのは子供が頂点を極めるときで中1が大人の始まりという印象があるのだけど、この漫画は中学時代が前世でわざと遠くの高校を選んで最初から生き直すみたいな感じになり、それが成功して中学までの過去もゆっくりした気持ちで振り返り、中途半端になっていた元彼や両親との関係も話し合い(含む怒鳴り合い)によって風通しが良くなっていく感じが、ある種の高校生世界の完成みたいな感じがあって、受験やその先の大学生活や大人になってからの小雪たちも見てみたいと思うのだけど、その完成というか頂点ところで終わっている(つまりめでたしめでたしということか)感じがある意味しみじみするというところもあり、先を期待するのも野暮という感じはしなくはない。

大人になっての実生活というのはどこが頂点とかどこかで新しいフェーズに入るとかそういうことはなくはないけど基本的には成長や円熟に同期した変化は歳を取れば取るほど少なくなっていく感じはするのでこの時代のヴィヴィッドな展開がとても初々しく懐かしく感じるのだなと改めて思った。

「頼山陽の思想」第2章第3節読んでる。儒家の思想は宰相以下の官僚の心構えをとき、学問と礼楽により人格を陶冶して完成された人格として政治に臨めば一国のみならず天下も治る、という考え方で、一方頼山陽の思想は官僚に求められるものは問題を解決し職務を実行する能力を持っていること、有能さであって人格ではない、という考えの違いがあるという指摘に納得するところが大きかった。

官僚の人格の完成などということは歴史を見ていて最初から考えないできたけれども、儒教がなぜ力を持ったかと言えばそうした官僚の目指すべき道を示して、またそれでそれなりにうまくいったところもあるということなのだろうと思う。ただ、もちろん人格だけで統治ができるわけではないし、人格高潔ということで出世した人間がとんでもないことをやり始めたり違う勢力に政治を乗っ取られたり、そういう人が政治的に無能だったりすることはよくあるからそれでうまくいくわけではないのは当たり前なのだよなと思う。

ただ、前近代の中国や朝鮮の官僚の文章がやたら周囲の民族に対して差別的であるのは、異民族は人格的に劣るから中国を侵略したり礼楽を基本とした馴染まないのだと「人格による差別」によって世界観を構築しているからなのだと納得できるなと思った。

また頼山陽は有能な人物は君主の地位を脅かす危険な存在でもあるという認識を持っていて、そのためには仕事を与えられそのための権限を与えられた官僚には監察が不可欠だという指摘をしている。これは中国でも日本でもなかなか制度としては機能しにくい部分があったが、つまりは徳川幕府の「目付制度」を称揚しているということなのかなと思った。

まだそこまでちゃんと読んでないのでまた改めて読んだことを書こうと思うが、江戸後期の記録を元にして書かれた本を読んでいると、何かの役(奉行)を与えられた武士には必ず目付がつけられ、二人で行動するような感じになっていて、目付というのは人の言動や行動の理非を判断し報告する立場だから自らが高潔でなければいけないという意識を持っていたことが多かったようだが、外国人の記録などを見ると奉行よりもむしろ目付の方が好奇心が旺盛で目付の方が夢中になってこちらの話を聞いている、みたいな描写もあったりはした。全ての奉行に目付をつけるのは無駄なようではあるけれども、恐らくは徳川政権が安定するためにはかなり有効な制度だったのではないかという気はする。

ただ、その先を少し読んでみると、山陽が指摘したかったのはそういうことではなくて君主自身、つまり将軍に対して諫言する存在が必要だ、ということだったようだ。この辺のところはもう少し読んで考えてから書きたいと思う。なかなか読む時間が取れないので全体的にまとまったことを書けないのだが、基本的には考えた内容やその筋道を書いているということでご理解いただけたらと思う。


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