「山県有朋」読了:現代に至る保守政治家の典型的なあり方を作った政治文化上の重要性など

Posted at 22/10/22

10月22日(土)曇り

このところいろいろ忙しいのと、どうも自分の考えている方向に物事が進まないあれ?みたいな感じが多く、世界と自分の周りと自分自身に何が起こってるんだろうかみたいなことが結構あるのだが、どういうアレなんだろうか。

今日は旧暦9月27日、明日は二十四節気の霜降。今朝は少し曇っているので気温が高く、さっき気温を見たら10度あったので暖かいなという感じなのだが、それでもストーブはつけているし寒いことは寒い。昨日は昼間はそれなりに気温が上がったが、今日は曇りの予報なのでどういう感じになるだろうか。

https://www.iwanami.co.jp/book/b473144.html

岡義武「山県有朋」(岩波文庫)ようやく読了。原敬について読んでいたときも山縣の原に対する評価が鰻登りだったのが、最後に原が暗殺されて、山縣自身が意気消沈して元気がなくなってしまう感じが痛々しいと思ったし、このことは山縣の人生において最後の希望が失われたということだけでなく、日本の将来にとっても暗雲が立ち込めたということであっただよなと改めて思った。

「けれども、この開かれつつあった新しい時代もわれわれの日本を光明の中へ導くものではなかった。そのことを、われわれは今日では知っている。そのことは、山県の長い生涯を辿ってその死に及んだ今、われわれの回想を悲しみと感慨とをもってみたす。」

岡はこの伝記の最後をこのように締め括っている。

空井護による解説は、岡がどのようにこの時代の政治家たちと、また山縣と向き合ってきたかということを詳しく述べていて、これは岡という人の研究と思想についての解説になっているのだけど、空井氏は岡をリベラリストと書いているけれども、書かれている対象が山県だったということもあるのか、読んでいて著者自身の思想を露骨に感じさせるような部分はなかった。

この著で引用されている史料のうち、空井氏が重視しているのは「大正デモクラシー期の政治 松本剛吉政治日誌」であるのだが、この松本の日記からの引用がかなり多いのは実際そうで、私が読んだ原関係の本と印象が重なる部分が大きいのは、この日記に依拠した記述が原ー山県関係の論文においてはかなり多くなっているということなのだろうと思う。

現代史が、というか歴史そのものがそうだけれども、読書や解釈をする際に難しいのは、「岡が山縣について書いた」という本を読む上で、山縣有朋という人物に対する理解を深めるということ自体はもちろん大事なのだけど、岡が山縣をどう理解していたかということについても理解する必要があるということだ。山縣はもちろん原のような議会制における政党政治家から見ても左翼の普選主義者・社会主義者から見ても戦後の言葉から言えば保守反動の権化であるし、山縣自身が対英米協調主義など現下の情勢と重なる思想を持っていることはあっても、その目的自身が彼の作り上げた部分の大きい帝国日本というものを守る、という目的意識が強かったことは間違い無いから、その評価自体を左翼的だと思うだろうけれどもその枠の中でそう位置付けられること自体に異論はないだろうと思う。

しかしそれまで描かれてきた冷酷無比の山縣像に比べて、おそらくこの山縣像はかなり人間味に富んだものになっていると思う。

山縣は自分で言っているように、「人間は権力から離れてはならない」という考えを持っていて、ある意味権力を持つこと自体が自己目的化した政治家だと言える。しかし、各状況のそれぞれにおいて山縣がどういう考えのもとにその状況に対応したかということについてはしっかり書かれていて、今の左翼の運動家や政治家が条件反射的に反応しているように見えるのとは違う、一つの政治決断をちゃんとしているところが理解できるのが良いのだろうと思う。

そして、山縣の「人間性」の部分について、和歌がたびたび引用されているのは大きいだろう。まさに菅前総理が安倍元総理の国葬で和歌を引用したように、その部分が人間としての共感を得られる部分なのだと思う。また山縣が庭園作りに精魂を傾け、椿山荘などを残していることも、その一面的でない人間性を表していることもまた大きいだろうと思う。

私は政治の担い手としては近代日本の政治家としては原敬を一番高く評価するところはあるのだが、もちろん原も内相時代に実行した神社合祀令などのちに禍根を残したと思われる政策もあったのだが、しかし大正期の後半を政治家として脂が乗り切った状態の原がプレイヤーとして加わっていたら、状況は全然違ったものになっただろうと思う。普通選挙法の実施は遅れたかもしれないが、軍部の独走のようなことを抑える力はあっただろうし、昭和天皇と軍部の対立的な側面に対してもより現実的な解を見出して激動の1930年代をもっと穏和なものにできた可能性はあると思う。

山縣はいわばそうした政治家に原を育てた一つの触媒のような人物だったという点で興味はあるし、帝国日本の保守的な部分を文字通り体現した人物であったから、その死によりその部分が形骸化していったところもまたあったのだと思う。

考えてみると、強い権力意志を持ち、人事をボス的に差配し、大きな屋敷に立派な庭園を作り、和歌を詠んだりするというのはマンガや小説においても「保守の大物」の典型的な描かれ方だし、錦鯉が有名になった金脈時代の田中角栄とか、ある意味山縣を模倣した人物は結構多いわけで、山縣がそのオリジナルであったのだなあと今考えていて思った。元大名であればそういうことも平気で可能だが、小身から明治維新という革命によって権力を駆け上がった政治家という一つの原型から考えて、保守の政治家の一つの元祖の姿であったという点でも山縣は日本の政治文化においても大きな位置を占めることになるのではないかと思った。

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