「鎌倉殿の13人」第39回「穏やかな一日」を見た:三谷さんの脚本に小栗さんに日本の演技界の中心になってほしいという意思のようなものを感じた

Posted at 22/10/17

10月17日(月)曇り

やること書くこと考えることなどたくさんあるのだが、今日は月曜日なので昨日見た「鎌倉殿の13人」第39回「穏やかな一日」の感想を書こうと思う。

https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/39.html

アヴァンでどこかでいた人が出てきたと思ったら、このドラマではナレーター担当の長澤まさみさん。どこかで出るだろうという話はあったがここで出てきたかと。

今回は承元二年(1208)から建暦元年(1211)年までの出来事を一日の出来事として演出するという、三一致の法則的なドラマの作り方。場所はひとところに限定はされていないけれども鎌倉の権力中枢、ときはその「ある穏やかな一日」、そして物語の主筋は王者たる実朝の成長、ということだろうか。

牧氏の変による北条時政の失脚が1205年で和田合戦とその前哨である泉親衡の乱が1213年なので、その間の比較的事の少ない時代を凝縮して演出するということだと思うけれども、このあたりは演劇の脚本家、つまり劇作家としての三谷幸喜のある種の遊び心というか、それを現すために本来ナレーターである長澤まさみさんを実際に御所女房として登場させるという遊びから始まっているわけだ。

義時は今まではワルいことをしても苦虫を噛み潰したような顔をして本来やりたいことじゃないんだ見たいな雰囲気を出していたが、今回は何をやっても微笑みを浮かべていて、もうマフィアの大ボスというかラスボス的な雰囲気を醸し出している。義時は「ゴッドファーザー」のドンコルレオーネのように演じてほしいというのが脚本の三谷さんの希望だということだけど、なるほどこういうふうに演じるのかと思った。

こういう役は悪役でもあるけれども歌舞伎で言えば一番重みのある捌き役を演じる俳優がやる役でもあり、つまりは中村吉右衛門や松平健がやる役であるわけで、それを小栗さんにさせるというのはある意味日本の演技界の中心になってほしいという三谷さんの意思表示であるようにも思われた。

自由気ままな和田を制する必要性を感じているのは義時だけでなく大江広元も同じで、だからこのあたりは上総介広常排斥の時と雰囲気が似てきている。義時が相模守、時房が武蔵守と北条一族が受領の地位を得ていく中、同じ御家人古株の和田が上総介(上総は親王任国なので受領として与えられるのは次官の介だが権威は他の守よりも重い)を要求するのはおかしくはないのだが、北条一族を幕府の中心として位置付けることに意を用いはじめた義時にとっては目障りだということになる。

一方実朝は天然痘に罹患し一命を取り留めたがあばたが残る。実朝は和歌に精進し藤原定家の指導を受けるようになるが、和歌の面白さを教えてくれた三善も大事にする姿勢を見せ、心優しいところを見せる。

実朝は泰時に恋の歌を贈るが、泰時が返歌をしようと迷っているときに源仲章にそれは恋の歌だと指摘され、実朝に「間違えています」と歌を返すがこっちをやると贈られた歌が今度は失恋を思わせる歌だったので、実朝の思いを知り、一人で酒を飲んで考え込む。

義時は泰時の家人の鶴丸(孤児の時から義時の先妻・八重が育てた)に「平盛綱」という諱を与え、さらに御家人に取り立てようとする。それを実朝に言うと実朝は泰時と心やすい関係を見せつけられた盛綱に対し少し感情的になって拒絶するが、義時に「自分は引退する」と脅され、義時に褒美をやる形で盛綱を御家人に取り立てることを認める。

妻の千世に自分が気に入らないなら側室を立ててくれと言われ、自分がどうしても女性を抱けないことをストレートにではないが告白することによって、千世との間のわだかまりが消える演出は美しかった。

一方上総介の地位をけんもほろろに断られた和田義盛は不満を募らせ、傲慢な義時の態度に不満を持っていた同族の三浦義村と愚痴をこぼし合う。

一方頼家の遺児・公暁は実朝が危なかった一時は後継者に擬せられたが、結局は出家させられ、京に修行に出る。

今回は実朝が恋も政治も自分の思うようにいかないながら、和歌を権威である藤原定家に評価され、また男女のつながりはないながらも妻の千世との関係を確立していく、悲しい姿ながらも成長していく姿が描かれたのが一番大きかったと思う。

そして義時が辛気臭い感じで御家人たちの不満を集めながらでもすこしずつ鎌倉の体制を「自分が担う」ものに変えて行こうとするかんじが、ある意味での実朝との協調の姿勢のもとに展開していくのが今回の主題だったと思う。そして和田合戦と実朝暗殺の伏線を張ることもまた、今回の演出だったのだと思う。

一方で、成長した朝時が実朝の御所女房に手を出して逆鱗に触れ、義時に何とかしてくれと懇願して「お前は父を超えようという気概がないのか」と呆れられ、あるはずないという屈折がまた義時の失望を呼ぶ、という展開から、泰時が反抗的ながらもその成長に内心目を細めてはいるのだなと感じられて少しほっこりした。泰時は父のやり方に疑問は持つことはあっても父に評価されたいとかはほとんどない青年として描かれているけれども、朝時以下は「父に評価される」ことを気にする子どもたちになっていくのかな、という気がちょっとした。そういう意味では重時がどう描かれるかに関心があるので、早く重時に出てきてもらいたいなと思う。

主演の小栗さんは義時の若者らしいのびやかな姿から、鎌倉政権の実質的な権力者としての振る舞いに至るまでの変遷を、演技の幅を見せて演じてきているのが、あるいはそれを天下に示すのが三谷さんのやりたかったことなんだなと改めて思った。

ただ、今回表に出てきたのは実朝の悲恋がメインだったと多くの視聴者は認識しただろうなと思う。泰時に最初に送った

「はるかすみたつたの山の桜花おほつかなきをしる人のなさ」

で、泰時の返歌を楽しみにし、また「間違っておられます」と返されてさらに送った

「おほうみの磯もとどろに寄する浪 われてくだけて裂けて散るかも」

が、失恋の歌と考えたことはなかったけれどもぴったりとはまっていたなあと思う。

https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/40.html

次回は泉親衡の乱とあるが、和田合戦の前哨戦なので、次の次が和田合戦ということになるのかもしれない。時政追放から和田合戦までのあたりの時間の経過をどう描くのかは少し注目していたのだが、まさかこういうふうに描くとは思わなかったし、ある種前衛的なこの手法も、おおむね好評で受け入れられたようでよかった。次回も楽しみにしたい。

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