差別は実在するか/物自体に没入する豊かさ/本当の豊かさとはなんだろう/土砂災害警戒情報

Posted at 22/09/08

6月8日(木)雨が降ったり曇ったり

昨日は松本へ行って体を見てもらい、帰りに丸善によって仕事の本を買って、デリシアで昼食の買い物などしてから帰宅した。体はだいぶ緩んだのだが、夜の仕事で緊張感が戻り、またそれが残っていたまま寝たせいか朝は3時半に起きてしまったのだが、二度寝して、というかもう一度床に入って4時15分頃に起きた。

携帯を見たら土砂災害警戒情報が出ていることを知り、気象アプリで確認すると1時台2時台を中心に50ミリ以上の雨が降っていたことを知った。2階で寝ていてこの雨に気づかなかったということは、実は結構ぐっすり眠っていたのだなと思った。早く起きてしまうのは、おそらくは運動不足なのだろうと思う。朝の外での作業を運動にしているから、作業できない日は汗をかくほど体を動かす時間がなくなってしまうので、運動の形態を他にもバリエーションを作っておかないとだめだなと思った。

少しS・K・ランガー「シンボルの哲学」の一部を読む機会があり、言語というか言葉(wordとかtermとか)の機能としてシンボルsymbolとしての機能=概念の部品として使われるものとサインsignとしての機能=その物自体を指す機能があり、人間の言語は主にシンボルとして使われている、というような話を読んで、少し考えたりしていた。

ランガーがこの著書を書いたのは1951年だが、フランスの言語哲学、ソシュール流のsignifiantとsignifiéみたいな話とは少しずれる部分はあるのだけど、結局こういう考え方の背景にあるのは、唯名論nominalismと実在論realismの違い、みたいな話からきているところがあるんじゃないかなと思ったりした。

ネット上で行われている議論も、「差別が実在するか」みたいな形而上学的な議論が結構あって、フェミニズムの人たちは「女性差別は実在する」という立場だと思うが、フェミニズムに批判的な人たちは「個々の差別は実在するが普遍的な女性差別というものはない(とまでははっきりとは言わないけど)、だから女性差別よりも階級による差別や文化資本の差などの方がより重要な場合もある」という主張をしていると思われ、だからそこのところですれ違い、つまり神学論争になっているのではないかと思った。

近代科学や近代市民社会の思想というのは基本的に唯名論の立場の発展なので、ツイッターなどを読んでいても考え方としてはノミナリズムというか、「差別は実在する」の「素朴実在論」の立場に立つフェミニストの人たちをややバカにする論調が強いのはそのせい(それをフェミニストの人たちは冷笑主義などというんだなと思ったのだが)かなという気がした。

というのはいろいろ考えながらネットを見ていたら「唯物論は素朴実在論の立場に立つ」という話が出てきて、つまりは階級とか搾取とかそういうものの実在を前提に理論が組み立てられているから、マルクス主義から理論的な色々なものを吸収しているフェミニズムはやはり同じ立場に立つのだなと思ったということはある。

新自由主義という言葉に対しても、いわゆる新自由主義者とみなされている人たちは、ほぼ「新自由主義など実在しない」という立場であって、彼らは確かに唯名論的な近代人なので全てを個々の責任に還元できるから彼らの思想的基盤は揺るがないのだろうなという気はする。

自分は新自由主義には反対の立場だからどちらかというと実在論的立場なのだが、フェミニズムの女性差別実在論に対しては、「それもあるだろうが他の差別もあり、それがもっと深刻な場合もある」という多元論的な立場だということになるなと思う。フェミニズムが理解されないというか支持が広がらないのはあまりに女性差別一元論であるからなのだと思う。

特にこういう話を書くつもりでもなかったのだが、私が書きたかったのは哲学が唯名論的発展をするにつれて「名」つまり理論や概念のみをもてあそび、「物自体」から離れてしまう(この物自体はドイツ哲学における用法と同じかどうかはわからないが、割と素朴な意味で使っている)、遊離してしまう傾向が感じられることについて疑問というか違和感のようなものがあるなということだ。

人間は個別の存在か類的な存在か、人間と他の動物を分ける線というものは実在するのか、みたいな話とはまた別に、ものを「それ自体」と見るのか「機能」としてみるのかとか、その辺の意識と感覚みたいなものが割と最近は雑になってきてるんじゃないかと思うところがある。貴族文化と成金文化の違いというか。

小林秀雄が「美しい花がある、花の美しさというものはない」と言ったときに、つまりは花の美しさというような概念化されたものではなく、一つの美しい花それ自体を愛でよ、みたいな感じにも取れるなと思ったのだが、花の美しさという「名」ではなく「一つの美しい花という実在に没入せよ」、と言い換えることもできるなと思った。

というのは、小林秀雄がその後骨董に凝り、その物自体への没入について周囲の青山二郎や白須雅子も含めてそうした追求がなされている感じが私は割と好きで、やはりそこには素朴な物自体への実在への没入の先にある種の超越性のようなものを感じるからなのだけど、このレベルになると素朴実在論というよりもっと別の言葉で呼びたいのだが今のところよくわからない。

Twitter上で言葉でdisりあって丁々発止してもなかなか何も生み出せないのは資本主義が金融を発明して貨幣が概念化し、実質経済に日が当たりにくくなっていることと共通している部分があるんじゃないかという気がするのだけど、逆にTwitter上で「絵」や「音楽」、「「もの」の写真」そのほか、実在性の高いものにいいねが集中するのは、人は概念ではなく物に飢えているということなのではないかという気はする。

哲学的な概念の使い方については、不慣れなので不適切なところはあると思うのだけど、「産業の知識化」みたいなものが進めば進むほど、人は「物自体」を求めるようになるのではないかという気は少ししている。だからと言って日本が遅れている「産業の知識化」を堰き止めていいというわけではないのだが。

豊かになるためには産業化が必要だったように、現在の世界のトレンドである「産業の知識産業化」を進めなければならないけれども、だからと言って危機の時代である現代がより泥臭い産業を必要としないわけではないから、そこらの国際分担もまた必要になるところはある。しかし、日本としては知識産業化を進めることによって「豊かさを取り戻す」とともに、「物自体」に没入できるある意味での「本当の豊かさ」をも回復していけると良いのではないかと思った。つまりはそれは文化資本そのものでもあるわけだけど。

言い換えれば、「ゆたかさ」というのは、機能的に十分な物に不自由しないというレベルの豊かさというのが一つあり、さらにその「もの自体」を愛することができる、愛でることができるレベルのものを持つ豊かさというものがある、ということなのだと思う。100円ショップのカップと作家もの、一点もの、ないし自分が作った、好きな人が作ってくれたカップを持つ、というレベルの違いと言ってもいい。金に明かせて「思い出のアルバム」を作るところを一流画家に肖像画を描いてもらう、みたいなレベルもあるけどそういうものだけではなくて、また物語消費とかそのレベルにとどまるものではない豊かさみたいなものなんだけど、その辺はもう少し考えてみないとまだ書けない感じはする。


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