1333鎌倉攻防戦は鎌倉騎馬武者同士の「最後の戦い」だった:「鎌倉幕府はなぜ滅びたのか」

Posted at 22/08/26

8月26日(金)曇り

いろいろ考えることが多くて昨日は「ブルーピリオド」を読み返していたりしたのだが、今少し読んでみて思ったのは、今書かれていることも少し前からの展開の流れでもう一度見直すとなぜここでこういうことを考えているのかとかがもう少しわかるかもしれないと思った。

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少し時間がある時に「鎌倉幕府はなぜ滅びたのか」の続きを読み、読了した。最後の新田義貞の鎌倉攻めのところが残っていたので読んだのだが、鎌倉攻めというと新田義貞が電撃的に攻め込んで稲村ヶ崎から鎌倉に侵入し、北条勢も戦ったが勝つことはできなくて滅びた、みたいにシンプルにしか認識していなかったけれども、数日に亘り激戦が繰り返され、藤沢に拠点を築いた新田軍と、六浦の方に出口を確保しそこから援軍を呼び込んでいた幕府軍との戦いがかなりの熾烈な戦いであり、また畿内での楠木正成らに代表される悪党戦術ではなくて、関東武者同士の騎馬によるガチンコの戦いであったというようなことは、この戦いのイメージを一新させてくれたなと思う。

著者がこだわっているのは「北条高時=暴君」というイメージを変えることのようだったのだが、北条高時は暴君というよりは病弱で強い権力を振るえなかった人であり、彼のそうしたイメージは中国の殷の紂王など、「国を滅ぼすのは暴君や傾城の女性」という伝統教養の中で形作られたイメージなのだというのはよくわかった。「逃げ上手の若君」でも高時は病弱のお飾りの王、みたいに描かれていて、これは新しいイメージを受けて描かれているのだなと思った。

鎌倉幕府が弱体化していくのはむしろ朝廷側が幕府の軍事力をいいように利用することで畿内悪党の戦い方が「進歩」し、ゲリラ戦など伝統的な関東武士の戦い方が通用しなくなったことが大きいというのはよく言われていたことだし、この本でもそのようにして赤松氏などの軍勢によって六波羅探題が滅びたのもなるほどと思ったのだが、関東ではそうではなく鎌倉の攻防戦では伝統的な騎馬武者の戦いが行われて先に消耗してしまった幕府軍が滅びたに過ぎず、そのため各地に北条勢が残存して南北朝の騒乱につながっていくというのもわかりやすかった。

この辺りの戦いの描写においては上方の人が書いたと思われる「太平記」では鎌倉武士の戦い方を知らないために描写が省略されがちだったということが大きいということで、著者は軍忠状などを手がかりに鎌倉の攻防戦を再現したということで、この部分はとても読み応えがあった。

この辺りもまた鎌倉側からの視点で大河ドラマなどで取り上げられると面白いのではないかと思った。もう少し史実に基づいた「逃げ上手の若君」のような展開になるのかもしれない。

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