「現代思想入門」を一通り読み終えた

Posted at 22/07/03

7月3日(日)曇り

昨日は仕事に出かける前に足の裏を怪我してしまい、皮膚が剥がれて血が出たりして結構困ったのだが、とりあえず落ち着いた感じ。ただ足の裏に怪我があると歩き方が変になったりして腰や膝に影響が出るのが困る。今朝はこれから出払い(町内会の草刈り)があるので困ったなと思っているのだが、まああまり気にしないでやりたいと思う。変に庇った歩き方をすると腰にくるともっと被害が広がる。

それにしても今朝は涼しい。昨日の最高気温は諏訪でも32度は超えていた(KDDIの通信障害のためかわからない時間がある)が、今の気温は22度台。今のところの予想最高気温は23度だが、これは本当だろうか。雨と曇りの1日になる、という予報ではあるのだが。

4時半ごろ起きたのだが夜はブラタモリとかねおくんをみたあとすぐ寝てしまったので6、7時間は寝てるだろうか。最近になくよく寝た感はある。前半はかなり汗をかいたが一度手洗いに起きて再度寝た時にはかなり涼しい感じだった。久々によく訳のわからん夢を見て、なんかうんうん唸っていた感じ。あれは悪夢というのではないが、なんだか奇妙な夢だった。精神分析家が喜びそうな感じの夢だった。

現代思想入門 (講談社現代新書)
千葉雅也
講談社
2022-03-16



昨日は「現代思想入門」を読み終えたので、その辺の影響が何かあったのかもしれないな。この本は色々と面白かったし色々と考えさせられたし、そうかなと思うところも多かったけどなるほどと思うこともあり、色々なことを考えさせられた。

あれあれ、雨が降ってきた。今日の出払いはどうなるのかな。

現代思想入門」第7章の感想。最終盤に来て、ローマ時代の健全な有限な自己反省みたいなものに帰ろう、みたいな話になってて、(フーコーがそういうことを言ってるというのはへえっと思った。)まあそれが健全だとは思うのだけど、そういう思考の原点みたいなところに帰るためには、「物自体」とか「否定神学」とかの「近代の人間の有限性の闇」みたいなのを経由せざるを得なかったということなのかな、と思った。

読んでて最後に解放のラッパが鳴ったというか、ジョージ秋山の「告白」のラストシーンだとか「祝福王」のある場面だとかある種の俳句の突き抜けた明るさだとかそういうもののイメージが押し寄せてきた。ある種感動のラストなのかもしれないがなんというか戸惑いもある。宮澤賢治の「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」みたいな明るさと言えばいいのか。私はみてないけど、「シン・エヴァンゲリオン」のラストもそんな感じのように聞き及んでいる。ある種の無限の悩みから解放されて現実を生きる明るさに祝福されたみたいな感じ。「十牛図」の「入鄽垂手」でもあるか。

この辺は東浩紀さんがチェルノブイリ観光をやったり「ゲンロン」を立ち上げたり、「現代思想家」が思想の枠にとどまらない活動をやっていることと関連してくる部分がもあるのかなと思ったりした。

「付録 現代思想の読み方」もまたこれはこれでおもしろかった。思ったことをいくつか。

フランス語の特徴は最低限運用する語彙数が日本語よりも少ないので相対的に少ない語数でいろいろなことを言おうとするために言葉の多義性を駆使する傾向があるということ。英語はフランス語よりは使われる語彙が多いが日本語の方がさらに多いというのはへえっと思った。その日本語の世界で「すごい、ヤバい、カワイイ☆」だけで言語を運用してるのは凄いことだという気もしなくはない。

フランス語の哲学思想の文章は日常語よりもさらに語彙が限定されていると。これはちょっと意外だったが、実は歴史の文章を読んでいても、文法的に複雑なことはあまり出てこないということがあって、(現代の論争的な内容ではそうはいかないが)歴史書の文章は基本過去形、みたいな感じだし使われてる語彙の意味、たとえば Négociantはワイン貿易(流通)商人とか、parlementは議会でなく高等法院のこと、とか解釈と定訳を決めておけばそんなに困難でなく読めて行くというところと似てるなとは思った。論争的な書物ではそうはいかない部分もあるのだが。

思想書のフランス語由来のレトリックはあまり気にしないで日常言語的に読む、というのもわかるなと思った。フランス語の文章(含翻訳)読んでて疲れる理由の一つは、あまり必要と思われないところで手の込んだレトリックが使われてたりすることだよなあ、と思う。これは英語でもよくある。言いたいことだけ言えよと思う。

で、「読むときは脱構築をするな」というアドバイス。これは多分本当にそうなのだが、私には難しい(笑)。どうしても突っ込みを入れながら読んでしまう癖がつくと本を読めなくなるというのは実際にある。特に左派の独断的な牽強付会な理屈の展開は突っ込み無しには読めないし突っ込むのも嫌になって読むのをやめてしまうことが多い。

これに関しては、読めない本は突っ込みを入れるよりも「書き手の概念の地図を書いてみる」というのはいいアイディアかもしれないと思った。客観的な姿勢で読めるかもしれない。ポンチ絵を描きながら読めばいいということだろう。まず内容を受け入れようとするから嫌になるので、最初から客観的に地図を書くつもりで書けばいいということだろうと思う。

思想書の読み方の例として挙げられている、ドゥルーズの「同一性は差異の周りをまわっているということこそ差異にそれ本来の可能性を開いてやるコペルニクス展開」という文章をどう読むか、という例は、同一性を地球に差異を太陽に例え、差異こそが中心にあるという「本来の可能性」を開く言説であり、だからこそまさに「同一性を中心とした天動説」から「差異を中心とした地動説」へと認識を転換する、まさに「コペルニクス的展開」なのだ、どうだうまいこと言ったろう、というふうに読むのが正しいということだな、どうだうまいこと読んだろう、と思ったのだが、残念ながら著者は違う説明をしていた。

「表象=再現前化」というのは何を言いたいのかと思ったらフランス語のrepresentationを日本語にする時に「表象とも言えるし再現前化とも言える」という意味で書いているわけだなと。こういう思想書の訳し方のルールみたいなものは、言われないとわからないところは多い。

ちょっと思ったのは「言い訳を繊細に描くことで常識的なものへの厭味ったらしい挑発をすることが知性」というのはどうなのか、ということだが、まあ言葉で「常識」を攻撃することで常識を超えていくということなのだろうけど、常識の力が見直されている現代ではまた違う戦略が必要な場面もあるかもしれない。

しかし、こういう文章はゼミの教室で読むに越したことはないなとは思った。何もヒントがなければわからないと思う。誤読して新しい哲学を打ち立ててしまいそうだ。それもまた良しなのかもしれないが。

「秩序と逸脱」というのは「芸術的に生きるとはどういうことなのか」という問題でもあると。まあそれは分かる気はする。しかし芸術というものの持つ意味合いも、「現代思想が流行していたあの頃」とは変わってしまったんじゃないかという気もしなくはない。特に今のようにwoke的な政治性を帯びたアートが高く評価されるようになってくると、何か間違っているという感じがしてくる。

しかし全体的にこの一冊を一つの思想書としてみれば面白い気はするなと思った。「ツァラトゥストゥラ」のラストを読んでるような気持もして来なくはない感じがした。どちらにしてもあまりよくわからないところもまだかなりあるので、たびたび読み返す機会もあるのではないかと思った。

多少雨は降ったが、出払いは無事終わった。


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