二項対立の思想のラディカリズムとそれに待ったをかける保守の思想

Posted at 22/06/22

6月22日(水)晴れ

昨日の突発事項はとりあえず対処した、というかまあこれからどうなるかは様子を見ないといけないのだがとりあえず昨日の時点ではまあOKというところまでは対処したのでこれから次第というところ。昨日はそれで疲れてしまい、他にもアクシンデントが色々あってブログはほとんど書けなかったので生存報告になってしまった。

私は日記という形式が好きなのでこういう日々の雑事的なことから書き始めるのだが、noteのサムネにこの辺りのことがあるとテンションが低くて読む気がしない人もいるんだろうなと思ったりもするのだが、そっちに対応して自分のスタイルを変えるかこっちのスタイルを守ってnoteからの流入が少なくても甘んじるのかということになるわけだが、まあスタイルを変えるためには色々検討する必要もあるので今はこういう書き方をすることにする。検討する余裕が出てきたらまた変えるかもしれない。

まあなんでもそうだが一度スタイルができてしまうと変えるのは大変なので、新しい時代や新しい形式に不適合だと思っても変える気になれないのはまあこちらが歳をとったというよりは余裕がなくてもなんとか毎日文章を書こうとしているからであって、書くだけ書いてあとで編集してもいいやという気持ちもなくはない。

まあ昨日は余裕がなかったのでいろいろ書くような内容のことを考えてもいられなかったのだが、事態に対処し終わった後は疲れが出て休んでいたということもあるし心機一転してちょっと本を読んだということもあって、いろいろ考えが出てきた。

一昨日買った本が千葉雅也「現代思想入門」(講談社現代新書、2022)とマンガでは「絢爛たるグランドセーヌ」20巻、「24区の花子さん」4巻(いずれも秋田書店ChampionREDComics)、昨日買ったのが野村泰紀「なぜ宇宙は存在するのか」(講談社ブルーバックス、2022)なのだが、一昨日は「なぜ宇宙は」の方が読みたくて昨日買いに行ったのだけど、昨日は「現代思想」の方が読みたくてそちらを読んだ。

現代思想入門 (講談社現代新書)
千葉雅也
講談社
2022-03-16



この著者の考え方はツイッターなどを読んでいても自分とは全然違うなと思って果たして読めるのかなと想いながら読み始めたのだが、案の定考え方は全然違うのだが、なんというかとても読みやすく、あっという間に「はじめに」と第1章のデリダに関する章を読み終えた。「脱構築」というのも自分なりに理解はしていたが著者の解説はややニュアンスが違う感じはあったけど理解はできた。この辺、「言語論的転回」とかに話は繋がるはずなのだが、そこまでは書いてなかった。

脱構築について著者は「二項対立において両者の勝ち負けが留保された状態」と表現しているが、これは自分たちが使ってきた用語で言えば「カッコに入れる」、つまり「相対化して考える」ということに近いかなと思った。

この本を読んでいて思ったのは、「二元論・二項対立」というものにどうしてそこまでこだわるのか、という印象だったのだが、要は「二項対立」というのは論理で考えて「論理的に正しい」方向に人間や社会を「改革・革命」するための考え方であって、何が善で何が悪かを決めることによって善が悪を残り越えるという考え方が背景にあるからではないかと思った。それを著者は「行動」と書いてあるから割とその問題性をスルーしそうになるけれども、行動をしないという選択がスルーされているようには思った。

つまり二項対立を脱構築するというのは決断のための思想で、行動のためには切り捨てなければならないものもあるが切り捨てたものに対する未練まで引き受けなければ価値のある決断・大人としての決断はできないというような感じに読んだのだけど、切り捨てない方法を考える方向性もあるのではないかと思った。というかまあそれが「保守の思想」ではないかと思うのだけど。

保守という思想はこういう「行動してしまう近代人・現代人」に「それは本当に正しいのか?」と疑問を提起する思想であり、また「理性で考えた設計主義」で現行の制度を切り捨てるラジカルに対し、言語化されていない現行の制度の豊潤な部分を理性で切り捨てることに反対する、その意味ではラジカルがあっての反ラジカルの思想なので、逆に言えばこういう脱構築などの進歩主義の戦略・手法のようなものを理解しておくことは意味のあることだなと思った。この辺のところの勉強が足りないから保守の側も思想が弱くなりがちだということはある。理性万能の近現代においてバーク以来の保守主義はあくまでもアンチの思想であるという謙虚さみたいなものが必要なんじゃないかと思った。

伝統や宗教の思想はあくまで正しいというある意味狂信的な反動主義、宗教右派、白人至上主義右翼思想みたいなものと保守が混同されがちなので困るのだが、そういうファナティックな思想はポリコレやジェンダー論のラジカリズムと同様、知る必要はあるけれども受け入れるべきでない思想であるように思われる。まあこの一点においては私も二項対立的に他者を敵視する姿勢を持ってはいるわけなのだけど。

まあ皮肉なことではあるのだけど、この一点においては二項対立を脱構築するという考え方が自分にとっては有効に働くことになるわけで、今まで自分と全く相容れない考え方の文章は読めなかったのだけど、それを脱構築することでもっと読みやすくはなるかなと思った。

80年代には脱構築に対する批判とかは「相対主義に陥る」ことに対する批判として現れたのだが、現代では相対主義が生きすぎた結果「なんでもあり」になって行っていて、ネットを見ていても「言ったもの勝ち」だとか正義と称して自分たちの利益の追求を正当化する強弁が行われたり、強者と弱者の都合の良い解釈だとか、とにかく「二項対立の悪用」と思われるような事態がとても多いなと思う。

私はもともとそういう二項対立的な思想に「?」と思う方であったから、まあみんなそれぞれの考え方で頑張っているよね、自分はどういう考え方を採用しようかな、などとぼんやりと考えている方だったので、80年代に優勢だった左派的な考え方もそれなりに「こういうのもあるよね」みたいな感じがあり、保守派・右翼と言われる人たちの考え方にはあまり良い印象を持っていなかったのだけど、直接的には1995年の阪神大震災による近代文明の脆さやその際の社会党政府の無策ぶりへの幻滅、同じ年のオウム真理教事件の勃発によって明らかになった相対主義の陥穽、人間社会を破壊する思想の危険性の認識などによって進歩主義に対して大きく信頼が失われ、そこから日本の右翼思想や保守思想について関心を持つようになり、その時の国家公安委員長であった野中広務氏の断固たる処断や、2002年の北朝鮮による拉致事件の発覚をきっかけにした国家が国民を保護できていない実態の暴露などをきっかけに国家の役割の重要性、せめて夜警国家ではあってほしいという考え方を持つようになった。

だから自分としては左派の動きには関心を失っていたのだけど、フェミニズムやエコロジーを中心に妙な先鋭化が進んでいる実態において、それがなぜ起こったのかということには関心を持つべきだと思ってはいて、この本はその辺のことを考える上では役に立ちそうだと思えてきた。

ちなみに社会的存在感を失いつつある時点からの左翼運動の流れというものに関しては外山恒一さんの本がいろいろと参考になったなと思っている。ただ運動史でなく思想史的なアプローチという点も考え方がいいなというのはなんとなくは思っていたのだなと思った。

思ったよりたくさん書いてしまったが、まあ日記だとこういう感じになるのでそこが良いところでもあり困ったところでもある。この本に関しては読んで考えたことをまた書いていきたいと思う。

本当は「鎌倉殿の13人」について考えたことを今日は書きたいと思っていたのだけど、それは稿を改めて書き、明日あたりにアップしたいと思う。

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