「学問の自由」と大学問題

Posted at 22/05/12

5月12日(木)晴れ

また夜中に目が覚めてしまったのだけど寝直して寝床の中で体を動かしているうちに眠りに落ちたらしく、目が覚めたら明るくなっていた。なのラダのあちこちの動きが悪かったところを動かしたところでだいぶ身体がほぐれたらしい。やはり寝る前にその日の仕事の凝りみたいなものを精神的にも身体的にもほぐしておいた方がいいなあと思う。寝て起きれば治る、みたいな考え方はどうもこの年になるとあまり通用しないなあと思ったり。

最近身の回りで亡くなる人が多く、昨日も地元の新聞を見たら少しお世話になった人が亡くなっていることを知り、お悔やみに伺った。帰りに花を頂いたのだがかなり香りが強く、玄関で水にさしておいたら玄関が百合の花の匂いでいっぱいになった。仏壇の前に備えたのだが居間が少し匂いが強すぎるので一つを上座敷に移した。毎日仕事に忙しい中にも、逝く人もおり来る人もいる。人の世は続いていく。

昨日はどうも調子が悪かったので取り立てて何をしたということもないのだが、「自由」というものについて考えたりしていた。私がこのテーマについて考えるとすぐに仏教的(というか禅宗的)な精神の自由、大悟みたいな方向に行ってしまい、「廓然無聖とは」ムムム、みたいになって思考が止まり、全然自由でなくなりがちなので、昨日は日本国憲法の自由の規定について少し考えてみることにした。

日本国憲法では「国民の権利及び義務」のところで18条で身体の自由、19‐21条で精神の自由(思想良心・信教・集会結社表現)、22条で経済活動の自由(居住移転職業選択)について書いてあり、23条でまた精神の自由に属すると思われる「学問の自由」について述べている。

これは「学問の自由」を特に強調する意味があるのだろうか。23条の学問の自由の規定、英語では

Article 23. Academic freedom is guaranteed.

とあり、アカデミックな自由は保証される、になるから日本語文の「学問の自由」より、より「大学の自由」色が強いのだなと感じた。この辺りに関して戦前戦後の「大学」における自由や自治の問題が検討されてきたわけだが、近年は大学にも政治との関わり合いが出てきていて、特に組織的にはトップダウン的な側面が強くなってきているから、この辺大学史的にどうなのかなと思ったり。ただ正直、この一言をどう解釈するのかというのはものすごく幅があるわけで、Twitterで見ている大学のあれこれ、教員間のトラブルのあれこれも元はと言えばここに起因する部分も大きく、それぞれの人の大学観にも関わるものであり、問題の所在や対立している点などをまた見直してみるのもいいのではないかと思った。

社会における大学の機能の問題という割と根本的な部分においても大学に所属している人たちの中でも違いは大きいように思うし外部から見たらまた全然違う問題が指摘されるだろう。

もともとこの日本国憲法の規定は自由主義社会を発展させるためには大学を拠点とした学問活動が重要であるという英米的なリベラリズムに由来する部分、また戦前からの学問研究が国家によって規制されていた部分について解放するという意味があったのだと思うが、今またこの辺りの問題は日本社会において一つの主戦場になる可能性はあるなと思われるので、何かの折にはまた考えてみたいと思った。


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