「経済的競争能力」の重要性/表現の自由について思ったこと/「破壊神マグちゃん」最終回

Posted at 22/02/09

2月9日(水)晴れ

朝起きていろいろ考えながら風呂に入ったり新聞をまとめたりしていたのだが、車で出かけてマガジンを買ってガソリンを入れて新聞を出してインスタの写真を撮って帰ってきた。帰ったらすぐブログを書こうと思ったのだけどなんとなくTwitterを見ていたら時間が経ってしまった。

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7日月曜日発売のジャンプ10号で「破壊神マグちゃん」が最終回だったのだが、そのことをしばらく考えていた。最終回は簡単に言えばとても良くて、ラストのセリフは「我に願いを乞うか…よかろう、ならば供物を捧げよ。愚かなニンゲンよ」なのだけど、「愚かなニンゲンよ」でこんなに感動するマンガは初めて読んだ。Twitterでもそれを繰り返しツイートしている人がいて、本当にそうだよなあと頷きながら読んでいた。

もうだいぶ前になるが「いきなり最終回!」という企画ものの本があって、名作マンガの最終回だけを集めるという本だったのだが、もうすでに知り合いに貸したまま帰ってきていなくて、手元にはない。「巨人の星」やら「あしたのジョー」やら本当に当時名作と呼ばれていた作品の最終回を集め他ものだったのだけど、最近のマンガであの時代のような「感動する最終回」になっているケースはあまりないように思う。特にジャンプの場合は半数以上が「俺たちの戦いはこれからだ!」で終わるのでそうでないラストになること自体がすごいことなわけだけど、「感動」というには捻った形で終わる作品が多いから、割とストレートにきてそして考えさせる部分もあるラストになった「マグちゃん」は最後に来てよくまとまった佳品になったなあと思う。昔基準で言えば割とアニメ化向きの作品だと思うのだけど、アニメ化は無理かなあ。

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表現の自由という問題を考えていて、というかそんな大きな話ではなくフェミニズムによる表現弾圧みたいな話がここのところずっと続いていたのだけど、ポプラ社の子供向け百科事典みたいなのに従軍慰安婦が強制連行されて云々、みたいな記述があることに自民党の山田議員が「対処します」とツイートしているのに対して色々な意見が出ていた。

このところ「表現の自由」が問題になるのはオタクの萌え絵界隈がフェミニストから攻撃されることと、Twitterでの攻撃的な言辞についての評価、それにあいちトリエンナーレで問題になった天皇制を攻撃する作品についての議論など、右の立場の表現、おたくの立場の表現、左の立場の表現、アーチストの表現という者がそれぞれ話題になっていて、いわゆる「表現の自由戦士」と言われる人は全ての表現を擁護する立場での発言をしているし、また表現の自由をいうなら立場の違う発言も擁護せよ、というようなことを言っているわけだけど、私はまあそういう立場とは違うなと思ったりした。

表現の自由というのは大事な原理なのだけど、あらゆる自由というのは「公共の福祉」によって制限し得るわけで、何が公共の福祉を毀損するのかはそれぞれの立場によって考え方が違うし、国はどういう立場であるべきか、団体や個人はどうあるべきか、みたいなことはそれぞれ議論がある。一定の妥協点で実際には動いているわけだけどその辺は常に脆い均衡なのでネットなどでは火がつきやすい話題ではある。

子供に関するものとしては、子供が自分で見つけ出す種類のものと親が与えるものというのを一応分けて考えたほうがいいと思っていて、子供はどうせ自分で刺激的なものや反社会的なものを見つけ出したりはするわけだけど、それは子供の自立の過程の中で判断力を養うためにもある程度は放っておいて良いものだと思う。一方親が与えるものは、親の立場から子供の健全な育成に資するものであるべきだと思うし、子供の情緒を育てたり将来の選択に資するようなものが良いだろうと思う。

ポプラ社の子供向けの百科事典の問題は、あったという証拠がない「慰安婦の強制連行」が取り上げられているという問題が一点と、「子どもに慰安婦というものを教えること」そのものの問題があると思う。少なくとも子どもに性的なものを教えるのはある程度の慎重さと賢察がいると思うし、そういう前提がないままに、つまり「子供が触れる最初の性的な話題が慰安婦である」というのはいくらなんでもあんまりだと思う、ということだ。

私は子どもには「歴史」だけでなく「神話」もちゃんと教えたほうがいいという考え方だけど、いずれにしても日本を、つまり子供達が生きているこの世界そのものを、まずはポジティブなものとして教えるべきだと思う、ということだ。

そういう意味では「子どもになんでも与えて構わないし表現の自由だ」というのはちょっと違うと思うし、それが表現の自由を推進する立場として正しいというのなら自分は「表現の自由戦士」ではないなと思う。とそういうことを思ったのだった。

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「資本主義の新しい形」2-3-2無形資産への投資 を読んでいる。経済成長というのは「生産されたものがどれだけ増えているか」ということでもあるわけだけど、「鉄鋼」とか「自動車」などの有形の生産物と違って、無形の生産物、すなわち「無形資産」は計量するのが難しいし、統計にも上がって来にくい。そこで一つの考え方として「何に投資されているか」を手掛かりに「無形資産がどれくらい形成されているか」を見ようという試みがなされている、ということだと思う。
キャロル・コラード(1950-)らによる研究は、アメリカにおいて無形資産への投資が1990年代を通じて急速に成長し、それへの投資は有形資産と同程度のものだっとし、その結果、統計に計上されていない無形資産を勘案すると実際の経済成長率はもっと高かった可能性がある、ということを示したという。

彼女らは無形資産を

1.情報化資産 ソフトウェアへやデータベース構築への投資

2.革新的資産 製品の研究開発費(科学的R&D)・資源開発の調査費・免許及び特許料・その他製品やデザイン関連支出(科学的でないR&D) R&D=research and development

3.経済的競争能力 資産としての企業ブランドの構築費・人的資本構築費=労働者の能力向上費用と経営者の生産向上に取り組む時間費用・それらを支援する組織構造の構築費用

の三つに分類した。このうち「情報化資産」と「革新的資産(この言い方が妥当かどうかという気はするが)」は分かりやすいと思うが、重要なのは3つ目の「経済的競争能力」だという。つまり「経営戦略」を練り「企業価値」を高め「競争力」をつけることがポイントであり、それが重要な無形資産である、ということだ。

そしてアメリカにおける無形資産形成の特徴は、特に3の「経済的競争能力」形成のための投資が多いということではないかと思う。無形資産投資の約半分をこれが占めている。

著者によると投資の非物質化が一番進んでいるのはアメリカ・イギリスでありそれを追うのが北欧・ドイツ・日本であり遅れているのがイタリア・スペインである、ということなのだが、その中身は日本とアメリカではかなり違うのではないかと思う。それについては次の項目2-3-3日本における無形資産投資の停滞 で述べられている。

この辺のところはまた改めて考えてみたいが、恐らくはこの辺りに日本経済の最大の問題があるのだろうと思う。

まだ読めていないが以下のリンクを読んでおこうと思っている。

https://en.wikipedia.org/wiki/Carol_Corrado
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Conference_Board

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