「資本主義の新しい形」:「日本の一人勝ち状態」とその状況からの転落過程とその背景にあるもの

Posted at 22/01/27

1月27日(木)晴れ

今朝もあまり冷え込まなかった。最近は1週間がすぎるのが早いなあ。だいたい毎週木曜の朝くらいに疲労の一つの山が来る。週の前半、いろいろ頑張ってるというせいもあるのだけど、その間にいろいろ問題点も溜まってくる、ということもあるのだよな。その問題点というのも基本的に漠然としたものが多く、無意識にいろいろ考えてしまうのだが対処方針までなかなか結びつかない。そういうものと対峙しながら日々のTO DOと向き合っていくわけで、まあ疲れるのも仕方ないよなとは思う。

「資本主義の新しい形」1-1-2「資本主義の進化としての非物質化」

この項の要点は二つあって、まずは高度経済成長後の世界経済の動き。もう一つはその過程で進行した「非物質化」がどんなものがあったかということ。

著者は「2度の石油ショックによって先進諸国の高度成長は終わった」とするが、日本経済の繁栄はむしろそのあと、80年台が本番だったと思う。他の先進諸国が石油ショックの影響、つまりスタグフレーション等に苦しむ中、日本は70年台の「保革伯仲」の相対的政治不安定期を乗り切って鈴木・中曽根・竹下の政治安定・経済好調期を迎えた。「日本の大国化」が目に見えて進行したのはむしろこの時期だろう。竹下蔵相が参加したプラザ合意を経て日本は金余りの状態となり、急速にバブル景気が進行し、土地や株式の高騰が続いた。

この好調=「日本一人勝ち状態」は90年台前半のバブル崩壊まで続く。バブル期の総理大臣は竹下・海部・宮沢で宮沢首相の時にはすでにバブル崩壊が始まっていたが、まだあまり大きなショックにはなっていなかった。

「先進諸国の高度成長を終わらせたのは石油ショック」という著者の主張とこうした事実を照らし合わせると、日本はこの時期にただ一人「高度成長の果実を民生福祉に還元し社会全体を豊かにすること」に成功したと言える。「一億総中流」というのはそれを象徴する言葉だと思う。

これは「結果的にそうなった」という面はかなりあるわけだけど、たとえそうでも「日本社会が豊かになった」ことは政治経済的な成功と考えるべきで、日本が今目指すべきは再びの「一億総中流社会」だと思う。

しかしその中で世界的には経済の構造転換が進んでいたわけで、著者はそちらの方を強調しているわけだ。

「高度経済成長の終わりとともにケインズ政策は有効性を失った」と著者は言うが、ケインズ政策が有効とされたのはもともと1929年からの世界恐慌に対する需要喚起政策、特に公共事業による需要と雇用の創出がそのオーソライズに由来だったわけで、重要な点は原油高によるコストプッシュインフレで不況下のインフレ、すなわちスタグフレーションに対してケインズ政策、つまり「需要喚起による景気回復」が機能させられなかったことが大きいのだと思う。

もともとケインズ政策は「政府の市場不介入」を金科玉条とする古典主義経済学からすれば「異端」だったと言うこともあるのだろう。私の子どもの頃、すなわち60−80年代はケインズ政策全盛の時代だったのでそれが主流だと言うイメージが私自身の中にはあるのだが、アダムスミス以来の古典主義経済学を信奉する純粋志向の経済学者から見ればケインズ政策を否定する好機に映り、ケインズ政策をアウトオブデートであり価値のないものとみなす言説が急拡大したのだと思う。

本来そのような学理上の紛争は現実に持ち込まないでもらいたいものだと思うのだが、実際には需要面で対策を打つケインズ主義よりも供給面の合理化を提唱する新古典派経済学=新自由主義の主張がプッシュされ、それが実際にレーガノミクスやサッチャリズムによって「証明」されたように見え、経済学の大勢もそちらに雪崩を打つことになる。

著者がいう通り、経済政策の焦点は需要側から供給側に移り、規制緩和(消費者保護や小規模業者保護などを目的とした規制も含めて)や民営化(公営企業優遇による「民業圧迫」の排除・民間活力の活用の名の下に公共性の高い事業が民営化された)、企業や富裕層に有利な税制改革、政府支出の削減(公共事業の削減による建設業の衰退・教育福祉分野の弱体化等)を目的とした様々な改革が実行されていく。

また注目すべきなのは変動相場制の導入によるブレトン・ウッズ体制(ドルを基軸通貨とする体制)の崩壊と「資本の自由化」による国境を越えた資本移動の活発化にあるようだ。

「資本の自由化」というのはつまりは「自由に外国に投資できること」であり、「外国資本の日本への投資も原則自由化する」ことであるから、「日本企業を外国企業が支配すること」も原則自由化されるということなわけで、日本経済が好調なときにはソニーがCBSを買収するというようなことも起こったが、やがてそれは逆転し日産がルノーの支配下に入ったりするようになったわけである。

この契機は少し調べた限りでは1980年の外資法の廃止・外為法の改正によって日本への資本移動が原則自由化されたことが日本国内にとっては大きいことだったように思う。外為法は時々問題になるが、あまりその意義がよく分かってなかったので、これから注目していきたいと思う。

現代資本主義の変化を「非物質化」と総括する本書はいわゆる「グローバル化」「金融化」「情報化」「サービス経済化」と呼ばれるような状況を一括して「非物質化」と表現するわけだが、それはつまり第二次対戦後は「外国企業による経済支配が植民地化をもたらした」ことから忌避されてきた多国籍企業の足枷を外す「資本の自由化」によって多国籍企業が再び世界に展開するようになった「経済のグローバル化」と、国境を超えて自由に莫大な資金が移動するようになった「金融化」、そしてそれが情報通信技術の発達(情報化)によって資本が瞬時に国境を超えて移動するようになったことにより、アジア通貨危機やサブプライムローン問題によるリーマンショックなどの大きな負の側面を伴いながら進む現象が起こっているわけだ。

また「情報化」は「サービス経済化」にも新たな革新をもたらし、携帯電話・スマートホン・パソコンなどの情報機器の生産増加による製造業への影響、また新たな「配信」などの新たなサービスによる出版・音楽業界への大きなインパクト、瞬時に価格を比較できる比較サイトによるホテルなどサービス業への低価格圧力、amazonなど大規模小売サイトによる市場支配など新たな状況が起こってきているし、「エンジニア」が現場の技術者からプログラミングを行う情報技術者になりつつあるような製造業とサービス業の区別の難しさが出てくるなど、それなりに大きなインパクトを持つ変化をもたらしているのは本書の述べる通りだと思う。

一つの項を読むごとに確認しなければならないことが多いのは、今までの勉強不足が大きいのだけど、このようにして子供の頃からの経済状況の変化の見えていなかったところが見えてくるのは面白いとは思う。

ただ、こうしてみると「当たり前」のように考えられているように見える「経済のグローバル化」などがいかに問題含みの現象であるのかということがよくわかるし、「ウォール街を占拠せよ」などの運動のよって立つ根拠のようなものもよく理解できる。

その運動の方法論自体には疑義を表明したいとは思うけれども、問題認識の部分は結構共有できる気がした。現代経済がいかに「勝者総取り」の仕組みになりつつあるかということはやはり確認しておくべきだと思う。そして今の日本はかなり敗者サイドなのだが、その中でも勝者サイドの人たちが大きい顔をしてのし歩いているという現状も改めて認識しておきたい。

日本が転落したのもこの過程の中で「日米構造協議」等で足枷をはめられたこと、国産OSの開発が抑えられたこと、また経済当局の失策などいろいろあってのことだと思うが、その辺のところはまたどこかで考えることになるだろう。

やはり本を考えながら、調べながら読むということは大事だなと改めて思う。

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