昨年読んだ本を17冊あげてみた(2)

Posted at 22/01/04

1月4日(火)晴れ

今日から平常営業。朝はゴミを出して職場を見回りに行き、午前中には松本へ行く。まだ休みの人たちは伊勢神宮に参拝に行くと言っていた。私が伊勢参りに行ったのは一番最近では2007年なのでもう15年前になるが、当時はアンジェラ・アキが流行っていて私も何枚もアルバムを持っていた。今は全然聞かなくなったが、気持ちの変遷というか応援したい対象が変わったということだなと思う。

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昨年読んだ17冊の本、後半。

一度きりの大泉の話
萩尾望都
河出書房新社
2021-04-21

 

萩尾望都「一度きりの大泉の話」。少年マンガに「トキワ荘時代」という伝説があるように、少女マンガには「大泉時代」という伝説があった、ということを知ったのはいつかはわからないが、もちろん萩尾望都と竹宮惠子という少女マンガの二大巨頭のことは昔から知っていたし、綺麗な少年たちが出てくるという共通点から近い関係なんだろうなとは思っていた。この本で描かれているのは二人の関係の萩尾さん側から見た話なのだけど、なるほどなあと思う。竹宮さん側からは仲直りしたい、水に流したいという気持ちもあるようだけど、萩尾さん側からはもう触れたくないということで、一度だけこの話をした、ということらしい。まあ二大巨頭の決裂というのは最澄と空海、ゴッホとゴーギャンなど昔から避けられない事態ではあり、萩尾竹村関係がよくないことを残念に思う人たちがいるのはわかるが、ゴッホとゴーギャンを仲直りさせるべきだったと思う人はおそらくいないわけで、まあ人間というのはそういうものだよなあと思ったりした。

近代の呪い (平凡社新書 700)
渡辺 京二
平凡社
2015-06-09

 

渡辺京二「近代の呪い」。近代の成立は国民国家の誕生よりも自立した民衆世界の消失にある、という指摘とか、近代がもたらしたプラスの意味をちゃんと吟味しないといけないという指摘とか、今考えなければならない指摘がたくさんあると感じたことを、当時のブログを読んで思い出したのだが、もう10ヶ月ほど前のことなのできちんとは覚えていない。ただ我々より上の世代から見た近代観は骨太のものだったなと改めて思うのだけど、この辺りのことはきちんと受け継いでいかないと後の時代の近代の見方がどんどん一面的になっていく一方だなとは思った。


 

宇野重規「保守主義とは何か」。これもじっくり読んだ。出てくる思想形にそれぞれ共感を感じるのだが、なかなか日本においてありうべき保守主義の形というのは難しいなと思う。アメリカ型の宗教保守やリバタリアン≒ネオリベラリズムに走りがちな勢力が一方にあるけれども、伝統保守というのも具体性はあっても思想的なバックボーンが難しく、その辺りのところを一年近く考えていてもなかなかいいプランが出てこないなと今感想を書いてみて改めて思った。




 

呉座勇一編「南朝研究の最前線」・亀田俊和「南朝の真実」。かなり前に買ったのだけど読んでなかった南北朝関係の2冊を昨年は読んだ。一般の読書人にとっては中世研究者として名前が上がるのは呉座・亀田の両氏が多いのではないかと思うが、気鋭の研究者による南北朝政治史という感じで、読んでいて研究の迫力が感じられて面白い。数年前の本なので、それぞれ研究はもっと進んでいると思うのだが、この辺りを読んでおくと回顧と展望的に流れが押さえられるかなという感じはする。

明治史研究の最前線 (筑摩選書)
小林和幸
筑摩書房
2020-02-28

 

小林和幸ほか「明治史研究の最前線」。思想史のあたりで読みが止まってしまったのだが、この辺りでしばらく明治期の日本の保守主義について考えたり幾つか読んだりしてみた。今から見れば福澤諭吉でさえある種の保守主義の源流と言えなくはないが、福澤の本質はもちろん開化の使徒であって、保守というものをどの射程で捉えるかによって福澤の立つ位置は全然変わってくる。私はなるべくなら中世近世近代現代と流れの中に捉えたい感じはあるが、近代国家以降が保守主義の射程であるなら保守主義の源流の一つということになるのかもしれない。いずれにしてもこの辺りは考えがまとまっていない感じ。

新説の日本史 (SB新書)
舟橋 正真
SBクリエイティブ
2021-02-05

 

船橋和真ほか「新説の日本史」。坂本龍馬の話とか、戦国時代の話とか当時書いたブログを読んで思い出したが、「新九郎奔る!」などは最近の戦国時代解釈に基づいて描かれている面がたくさんあるのだなと改めて思った。またこれもマンガだけれども、「センゴク権兵衛」で豊臣秀次の切腹が実は抗議の自殺だった、という説で描かれていて、これも最近の新説に基づくのだなということも「センゴク」を読みながら思ったのだが、これもこの本で読んだのだなということを思い出した。


 

田中克彦「ことばは国家を超える」。ウラルアルタイ語の言語学の類型学的な方向性の重要性を説いているのかなと思ったが、これはインドヨーロッパ語の音韻学的なアプローチの批判であり、またその背後にある孤立語である印欧語が膠着語であるウラルアルタイ語よりも高級であるというエスノセントリズムがあるという主張はなるほどと思った。現代に残る膠着語はモンゴル語やトルコ語、朝鮮語や日本語などで、その分布域のほとんどは中国語とロシア語に席捲されているのだけど、現代はまさに中国による言語弾圧が行われているわけで、この本のタイムリー性もその辺りにあるなと思った。

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一年分でまとめてみるとずいぶん多方向のものを読んでいるなと思うし、おそらく10年くらい前に読んだ本とはかなり傾向が変わっているだろうと思うのだが、この辺りを読まれる方に参考になるものが少しでもあれば、嬉しいなと思う。ブログを遡ってみると2010年の終わりには年末まとめをしているので、12年前のまとめについて少し書いてみたい。




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