「鎌倉殿の13人」:宮沢りえに期待/日本の強みをどう生かし弱みをどう補うか/合理主義的狂気の暴走を止める保守主義の中庸

Posted at 22/01/17

1月17日(月)曇り

今日は阪神大震災27周年。改めてご冥福をお祈りします。

昨日は、というかここのところ本を読んでいる時間が長くて出不精になっているのだが、廣松渉「<近代の超克>論」を借りていないということを思い出し、月曜日は図書館が休みなので日曜日の開いているうちに、と思ってググったら諏訪市図書館にあることがわかったので借りに行った。実は岩波現代文庫だと勘違いしていたので楓樹文庫に借りにいくつもりだったのだが、実際には講談社学芸文庫だった。

書庫まで取りに行ってもらって借りたあと、最近あまり体を動かしていないので少し散歩をしようと思い、文化センターの裏の方から衣之渡川沿いの道に出ると、鴨や白鷺が何羽かいたので写真でも撮ろうかと思ったがiPhoneを構えると逃げてしまって撮れなかった。河口の方の水面に白いものが堆積しているのでよくみたら氷だった。そのまま湖畔に出ると、湖面は概ね凍っていたのだが、まだ薄氷で表情を歩けるようになるまでいくかは微妙だなと思った。戻ってきたときに神社があるのに気付き、石碑を読んでみると「衣が崎弁財天」と書いてあった。弁天様は仏教の諸天では、と思ったがこれが神仏習合というものだろう。連歌の歌碑があって、地元の文化史の一端に触れた感じがした。

帰ってきて「IT全史」四章まで読み終わって昨日のブログを書いた。夜は「鎌倉殿の13人」を見、インドにいる友達と少し話をして寝た。

「鎌倉殿の13人」第2回は頼朝が義時にのみ心底を明らかにするのが面白いと思った。そのポイントは「兄弟思いであり、筋を通そうとし、人のために労を取る」ということかなと思ったのだが、まあいつも貧乏籤を引かされるというのがあの役の、というか三谷演出のある意味あざとさという感じではあるが、この人物像をどこまで引っ張っていくのかが見ものかなと思った。あとは宮沢りえの演じる「牧の方」が初登場だったが、「情勢分析に長けた女性」という権謀術数型の雰囲気を漂わせていたのがちょっと期待が持てる感じがした。登場人物が「複雑な存在」である頼朝を除いて田舎っぽいか子供っぽい感じになってしまっているので、宮沢りえの演技は期待が持てる感じがした。

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今朝は朝から「日本の強みをどう生かすか」みたいなことを寝床で考えていた。「IT全史」を読んでいてアメリカがイノベーションに強いのは通信に関しても自由な個人の活動を重視してきたアメリカの歴史が大きいなということは昨日も書いたけれども、日本は新しい枠組みを作り出すのは時間がかかる感じがし、例えば強者が弱者を制する「御威光」による公儀体制を作り出すことでようやく江戸時代に社会が安定したが、その枠組みの中ではそれぞれが力を発揮するよなということを考えていた。

明治以降もそれが国民性として鍛えられてきているわけなのだが、そういう意味ではその「枠組み」をなるべくまともなものにすることが重要なのだと思う。戦後は吉田茂の「軽武装・経済成長路線」が割合うまくはまって「一億総中流化」というある意味理想的な状況を実現したわけだが、冷戦構造崩壊後に「総中流社会」が崩れていった。その辺りについてはもっと考察しないといけないとは思っているが、今国民に与えられて比較的支持されてるのが「新自由主義的な自己責任の枠組み」と「ポリコレ・リベラル的な枠組み」のふたつになっていて、それから外れた人たちがSNSで暴れている、という感じがある。

日本の現状は新自由主義政党とポリコレリベラル政党の二大政党にエコやらカルトやらがひっついて離合集散しているという認識が良いかなという感じなのだけど、この中でまともな保守主義やらまともな社会民主主義やらはなかなかまとまった形になれない感がある。

なぜこうなったか、については個人的には小泉改革の「官から民へ!自己責任!」の洗脳が一番強く残っていると思うのだけど、安倍政権のお気持ち保守主義(中身は対中硬・対米協調くらいで何を保守するのかは結構グズグズだった気がするが)みたいなのも割と強いなとは思う。その保守の中身がなんだが最後までわからなかったけど、モリカケサクラ的なものは多分その政治運営の手法を解く鍵ではあるのではないかという気はしている。これは特に否定的にみているわけではないし、野党はそれを攻撃する方向にしてしまったからかわされて終わりになってしまったが、もっとちゃんと分析すれば将来に資するところがあるのではないかという気がする。

安倍・麻生・菅三氏の功績はもちろんあるのだが、日本の「自壊していく何か」みたいなものは止められてないと思う。何が崩れて行ったかといえば例えば「治安」と「希望」であるわけで、その辺りのところの正体関しては私もまだ掴み切れてなくてなんともいえないのだが、その辺はもっと明らかにしていく必要はあると思う。「平成史の闇」みたいなものといえばいいか。

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新自由主義に親和的な人物像といえば昨今の個人投資家というものがあるけれども、中には株価しか頭にない「理性的な狂人」みたいな人が結構いるということはツイッター見てると割とわかる、自分が雇ってるわけでも雇われてるわけでもないのに賃金をコストとしか考えないとかの言動してるわけだけど、それを経済学の専門用語で「経済人」というわけで、こうした短絡的な人間像に大きな影響力を持たせたところが日本の失敗の本質ではあるのだろうという気はする。

日本は国土の条件が厳しいので常にメンテが必要な国な訳だけど、「経済人」に任せてたら熱海の盛り土崩壊災害みたいなことが続出するのは目に見えてる。インフラも通信のような稼げるインフラは民営化してもいいが治山治水のような稼げないインフラは国が責任持って近代的手法と伝統的手法の良いところを出し合ってやっていくべきだと思う。

ただ、日本の官僚制の弱点はそういう伝統的な知恵のようなものをうまく吸い上げられないところにあると思っていて、治山治水もそうだが伝統建築や伝統医療みたいなものを敵視するところがある。政治は割とその辺のところを今までは汲み上げてこられていて、例えば漢方などを保険制度に組み入れるなどをしているわけだけど、保守発言で有名な名古屋の医師の発言などを見ていると、結構それ(漢方など)を敵視していて、一見保守に見える近代主義者とはこういうものだなと思ったりする。

こういう動きは行き過ぎた近代主義の名残みたいなものだが、新自由主義はそれをさらに極端に押し進める側面を持っているので、維新が文楽を潰そうとしたりすることにつながるわけである。

保守の本質の一つは中庸だろうと思う。中庸の一つの手段は価値の相対化であって、小林秀雄がマルクス主義も「意匠」にすぎないと宣言したように「一つの価値に偏しない価値」みたいなものはある。ただ価値相対「主義」に陥ると価値そのものの価値がわからなくなるという危険があり、特に十分「人間としての価値観」が育っていない若い頃には陥りやすいところがある。

小林秀雄の印象批評的な側面を批判し、より「科学的」な方法論に基づく批評が現在は主流になっているけれども、批評が政治的な意味での「力」を持つためには理性だけでなく伝統や進歩に対する感受性のようなものが重要になるところはあるわけで、その感受性をいかに育てるかみたいな情操教育的な部分がやはり必要になってくると思う。

それが国語の古典教育の本旨だと思うのだけど、そこがリストラの対象として議論されているのは教育も「経済人」的な「合理主義的狂気」の襲来にさらされているということなんだろう。「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」とはチェスタトンの言である。

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