「ハロー、ユーラシア」:日本と中国の「天」の概念の違いなどについて

Posted at 21/12/25

12月25日(土)雨上がり

今日はキリスト降誕祭だが残念ながら(現実にはありがたいことに)雨は夜更け過ぎに雪へと変わらなかったが、そういう天気だったのであまり冷え込まずに済んで、それが何よりのクリスマスプレゼントという感じである。

忙しい中で少しずつ「ハロー、ユーラシア」を読んでいて、第五章「天にアクセスする心」の途中まで読んでいる。この辺りのところ、ちょっと整理しないといけないところもあって今書けるのはメモ的なことになる。

「天」の概念が趙汀陽によるものはシュミットが「法が停止されるような例外状況において決定を下すことができる絶対的主権者」に関係してくる、ということになるようだ。これはもちろん戦前日本においては「聖断」ということになるし、中国においては共産党指導部による決断ということに実際にはなるだろう。そういう意味ではおそらく趙汀陽の議論はその限りにおいて共産党支配に資するものであることは間違い無いだろうと思う。

亡命者である牟宗三の議論では、中国思想の特徴は、西欧思想が「客観性」を重んじるのに対し、「主体性」を重んじることにあるという。それは儒仏道の三道に共通するとする。これは割となるほどと思うところがある。禅における「随所に主たれば立つところ皆真なり」というのもそういうことだろう。また、日本の「やまとだましい」も本来は中国の学問=漢学、漢意を現実に適用する力、政治力のようなものを指すところからもその「主体性」がそこには内包されていると思う。それらは実存ともまた関わってくるが、確かに日本と西欧を比較しても日本はより「主体性」が、西欧では「客観性」が重視されるようには思った。

もう一つ思ったのは、「天」の概念が日本と中国とでは違うのではないか、と思ったこと。日本で天というものは「お天道様」という言葉に代表されるように、主に太陽をさし、その明るい倫理的正しさ、「清く明き心」みたいなものに近い感じがする。天賦人権などという概念も、人権という概念を与えてくれるのは「天」であるという、倫理性のようなものを象徴しているように思う。

一方で中国の「天」は太陽ではなく「地」の上に広がる茫漠とした「上」にある存在であり、抽象的な存在のように思う。第五章では中国の「天」思想についての議論が展開されていて、まだそこをちゃんと捉えきれてないのでそこはメモという所以なのだが、どちらかというと「人間の運命を決める力」のような絶対的・権力性を持ったものと捉えられている感じがした。

項羽が「天が我を滅ぼすにして戦いの罪にあらざるなり」と言ったとされる「史記」の記述は少なくとも倫理性というよりは「自分が滅びるのは運命だったのだ」と言っているように思われるし、伯夷叔斉の「天道是か非か」になると、「良い運命」と「倫理的正しさ」が一致しないことへの怨嗟があるように思う。

「天賦人権」の概念は無為自然の自然のようなものという気もしたが、孟子の易姓革命的な「民の幸福こそ天意」の概念の延長上という解釈もこの本を読んでいて考えたが、ちょっとこれはペンディングだ。

礼記にあり孫文が唱え麻生太郎が派閥の名前にした「天下為公」という言葉も、ググってみるとさまざまな解釈が示されていて、「天下を持って公となす」とすると割と統治原理っぽくなるし、「天下は公のために」とすると人民の幸せのための政治が大事、みたいな感じになる。この辺りのこともまだもう少し考えないといけない。

日本でも「天壌無窮の神勅」になると、天意が天皇家の祖先に「中つ国」を支配する権利を与えた、それは天が与えたものだから無窮であり、永遠に天皇家の支配が続く、万世一系である、ということの運命論的な根拠にもなるので、これは反孟子的である。だいたい日本では易姓革命論は非難されてきたので孟子は禁書っぽい時代があった。

まあこれらは全て作業仮説っぽいメモ的なものではあるが、とりあえず今日のところはこれで。

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