日本が負けた時、官僚は何を考えていたか

Posted at 21/12/05

12月5日(日)晴れ

昨日は父の命日だったので、墓参りをして花を供えたりしてきたのだが、2週間前の法事の時の花がまだ枯れていなくて、寒くなってくると花の持ちが良いなあと思ったり。

今朝は5時ごろ起きて色々やっていたのだが、もう7時になってしまった。この時期は明るくなってから何かしようとすると遅い時間になってしまうのでどうもなかなか上手く動かない。



 昨日は色々と調べていて大平元首相の思い出を語る「去華就実」という本の内容を読めるサイトにいきあたり、そこで伊東正義・宮澤喜一・鈴木善幸の各氏が大平さんの思い出を語るというのがあったのだが、御厨貴・中村隆英編「聞き書 宮澤喜一」(岩波書店)ではほとんど語られていない大平さんの話を宮澤さんが語っていて、色々と興味深かった。

聞き書 宮沢喜一回顧録
岩波書店
2005-03-04

 

もともとこの本については福永文夫「大平正芳 「戦後保守」とは何か」(中公新書)を読んでいて出てきたのだが、終戦直後に東久邇宮内閣が成立し、大平と同郷の津島寿一が蔵相になって大平は宮澤とともに秘書官になり、二人で芝生に座ってある種の夢想を大平が語ったことを宮澤が語っているのだが、当時はまだGHQの進駐も進んでいない時点で、大平は「日本の鉄道網を担保にアメリカから復興資金を借りれないだろうか」と言っていて、その後に進んだGHQによる徹底的な、あるいは苛烈な日本懲罰と改革を考えると政府の当事者たちの頭の中は全くついていけてなかったのだなということがよくわかる。

大平正芳―「戦後保守」とは何か (中公新書)
福永 文夫
中央公論新社
2008-12-01

 
宮沢はその大平の発想を、満鉄を担保にハリマンが金を貸すという話があったことと関連づけて、だからそういう夢想をしたのかなと振り返っているが、もちろんそれは後からだから言えることで、当時の宮澤の頭の中が大平よりも現実的であったかどうかは分からない。

ただこれは、終戦直後の実務に当たっていた官僚たちが実際にはどういうことを考えていたのかについての貴重な話だなとは思った。

結局後からはどんなことでも言えるし、大平にしてもその1ヶ月後には自分が言ったことなどもう口にもしなかっただろうけど、宮澤という人のある種エグいところはちゃんとそういうことを覚えていて口にするところなんだろうなあと思う。

またのちに大平内閣の閣僚になる伊東正義や佐々木義武、大来佐武郎などが戦時中は各省庁から興亜院に出向してきていて、その繋がりがあったらしく、第二次大平内閣は興亜院内閣と陰口を叩かれた、という話も面白かった。

大平は興亜院では張家口に出張して、内モンゴル連合自治政府に関わり、それが国家というものを考えるのに貴重な経験になったという話があって、岸信介が満州国で好き勝手にやったり、福田赳夫が汪兆銘政権でかなり優遇されたりしたような「良い」経験では買ったようだが、徳王のモンゴル統一の夢などにも大平が少し関わっていたというのは、昭和50年代になってもそういう戦前とのつながりはかなり強かったのだなと改めて思った。



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