植木枝盛から考える(1):痛ましい気持ちになるリベラリズム

Posted at 21/03/18

なかなか忙しい。仕事の方が忙しいのと身体のケアに気をつけるのと母の状態に気を配るのと、後自分の研究とか勉強とか。研究してたらお金もらえる人たちは羨ましいが、はっきりと研究したいものが確定するまでにこんなに時間がかかってしまったのではなかなかそういう立場を獲得するのは難しいなと思う。まあそれもまた人生かとは思うが。

ただ、いろいろな形で人生を送る中で、研究を志したくなることは多分誰にでもあることなので、それがサポートされる世の中になったら、日本ももっと豊かになるだろうになとは思う。まあ学生が学業を修めるのも困難が多い時代になってきたからなかなか難しいなとは思うが。それにしてもこんな貧しい国にして恬として恥じない我が国の指導者層は問題があるなと思う。

明治精神の構造 (岩波現代文庫)
松本 三之介
岩波書店
2012-01-18



それはともかく、昨日は「明治精神の構造」の植木枝盛の項を読み終わった。読んでいてどうも読みにくいのはなぜなんだろうと思っていたのだが、要は「私は自由民権運動にはあまり共鳴できない」ということなのかもしれないと思い当たる。読んでるうちにどうも、「運動のための運動」みたいなものが感じられてきてしまったからだろうか。

植木枝盛には「ナショナリスティックな部分」と「リベラリスティックな部分」があるという指摘があったのだが、それはそれぞれどういう意味かというと、「ナショナリスティックな部分」というのは国家というものを人々が集まって自然にできた共同体である、という感じで捉えているところがあるということのようだ。つまり、彼のいう「畢竟国は民の輻(あつ)まるもの」とか「凡そ国家は生活体」という素朴な国家観で、「小国寡民」とかポリス的というか例えていうならマンガ「ワンピース」に出て来る国のイメージに近い感じがする。割とこの辺が日本人の「国」に対する原初的なイメージなのではなのかもしれないとも思う。基本的に「性善説国家観」と言えばいいだろうか。

一方の「リベラリスティックな部分」というのは、つまりは「国家は信用ならないものであるから市民が監視しなければならない」という考え方で、「性悪説国家観」とも言える。なぜ彼がそういう考えを持つに至ったかというと、もちろんフランス・イギリス等の書籍から学んだ部分はあるだろうと思うが、要は板垣退助の書生になったのち、彼が自由民権運動に携わり、その中で政府官憲に何度もてひどい弾圧をくらったことが大きいようだ。

それが彼に「自由主義的」な私擬憲法を作らせ、第一回衆院選に当選して帝国議会でも政府攻撃に余念がなかったというのは、よく言えば「彼の思想は運動の中で成長したものである」ということもできるが、逆に彼の「怒り」が「自由主義の原動力」だったということで、ちょっと痛ましい気持ちになった。

どうも彼の怒りは傍聴者にも強い印象を与えたらしく、「のべつに遣らかしては怒りの効能追々薄くも為らずや 氏が嚇然大怒せねばならぬ事今後続々出で来るべし 今少しく其鋭気を蓄へて可なり」と評されいて、実際2年後に胃潰瘍で亡くなっているというのは、それを裏付けてしまうのは悲しいことだ。

彼は自由民権運動当時は有名な人物だったが、こうして第二回衆議院選挙の直前に36歳で亡くなったため、忘れられた存在になってしまったらしい。再び脚光を浴びたのは昭和11年のことで、特に戦後家永三郎によって研究されて評価が定まったとのことだった。この辺りは植木という人物についても家永という人物についてもようやくイメージできた感じがある。教科書に割と太字で出てくる植木の思想がのちに継承された形跡がないことも不思議だったし、家永三郎という人が何で評価された人なのかもよく知らなかったので、植木をきちんと評価して民権史と思想史に位置付けた、というのは重要な仕事と言えるなとようやく理解できたところがある。

植木枝盛という人は幕末の安政4年(1857)に生まれて明治維新の時が満で11歳、板垣が下野した明治6年政変時に16歳。これに刺激されて18歳で上京し、明治9年には投書内容が筆禍事件を起こして讒謗律により2ヶ月投獄されたという。この時まだ19歳である。翌年板垣に従って帰郷し、彼の書生になる。明治14年政変後に私擬憲法を発表し、自由党が結成され板垣が遭難した1882年で25歳、自由党の低迷期には各地を遊説したりし、33歳で第一回衆議院選挙に当選、そして2年後に亡くなっている。こうしてみると、ほぼ「自由民権運動そのもの」という人生だなと思う。今いろいろネットで見た限りでは河野広中ら剛農民県との接点があまりよくわからないのだが、士族民権系統の思想家としては重要だと言えると思った。

彼が持っていた素朴な、あるいは割と広く今でも日本人に共有されている国家観というのはどこから出てきたのだろうかと少し考えていた。例えば「国民は天皇の赤子」みたいな感覚もそれに近いのだろうかとか。家族の延長線上に国家がとらえられてると言うことなんだろうか。孔子の言う修身・斉家・治国・平天下的な儒教的なものの影響なのか。ゲゼルシャフトをゲマインシャフト的にとらえると言うか。会社は一家みたいな。ヤクザとかの「一家」の概念もこう言うものに近い感じはする。

今朝考えていたのはこれは近世武士道の影響なのではないかと言うことで、つまりは「忠義」と言うものの捉え方だろうと思った。

長くなったので今日はここまでにして、続きは明日にしたい。

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