日本の保守主義と「武士道」の存在感:鬼滅の刃と白虎隊と葉隠

Posted at 21/03/12

しばらく忙しくてブログをかけていなかった。早く片付けなければならない用事がいくつもあったからなのだが、しかし母の分の確定申告をしに市役所に行ったら申告期間が4月15日まで延長されていることを知ったのだが、まあもう片付けてしまった方がいいので順番を待ってなんとか済ませた。その他の手続きを市役所で聞いたら何だか頭痛が出てきそうなほど面倒くさいことだったので、とりあえずペンディングにするなど。

明治精神の構造 (岩波現代文庫)
松本 三之介
岩波書店
2012-01-18



保守主義について書いているけれども、今は「明治研究の最前線」はとりあえずおいておいて松本三之介「明治精神の構造」(日本放送協会、1981)を読んでいる。出てくる思想史上の人物について、まず生きていた年代を確定しようと生没年の一覧表を作りながら最初から読んでいたのだが、「明治精神のバックボーン」の中の「国家主義」「進取の精神」に続く「武士的精神」を読みながら、これは実は「日本の保守主義」を考える上でもかなり重要なことだと読んでいて気がついた。

武士が存在したのは明治2年の版籍奉還に伴う一連の名称変更の中で「士族」という身分が作られるまで、つまり実質的には江戸時代までであるから、彼らの道徳であると考えられる「武士道」は「前時代のもの」であり、近代社会における「保守主義」と関連づけるのは無理があるように感じていたのだが、明治維新の原動力になった勢力は言うまでもなく下級武士であるし、彼らの身分的・階級的利害があまり反映されずに明治政府が作られたことについては以前からさまざまな考察が行われているが、彼らの道徳、いわば「武士道」ともいうべきものがそこに働いているのではないかと言うのは妥当なように思われる。

とすれば、明治維新を成り立たせた道徳・倫理というものが「武士道」であったと考えられる。この名称の付け方はニュートラルなものにするのが難しいので松本氏はあえて「武士的精神」と呼んでいるのだと思うが、なお考慮の余地があるようには思われる。

我々が「武士道」と呼ぶものは江戸時代とそれ以前の「武士道」とは違う、というのはよく言われることで、それも含めて検討しなければならないところは多い。また武士道は西欧の騎士道とよく比較されるが、騎士道が明らかに前時代のものであるのに対し、武士道はまだそこはかとなく日本文化の中に残っているように思われる。

鬼滅の刃 8 (ジャンプコミックスDIGITAL)
吾峠呼世晴
集英社
2017-10-04



たとえば「鬼滅の刃」では、「武士道」と謳われてはいないが、「鬼殺隊」に共有されている道徳はいわば武士道であるだろう。昭和の頃の武士道のイメージに比べると、特に主人公の竈門炭治郎の個性もあり、よりヒューマニスティックな側に傾いてはいるが、武士道と呼んでそんなに間違ってはいなものだと思われる。

「鬼滅の刃」の巧妙なところは、この道徳・倫理を「武士道」とは呼ばないことだ。一度武士道と呼んでしまえば、「武士道とはそんなものではない」という内容的批判から、「封建道徳を広めようとするなどけしからん」といった思想的批判、さまざまな批判が湧き出すことは間違いないだろう。

しかし、ツイッターで書いた時「鬼滅の刃」を読んで最初に「白虎隊を思い浮かべた」という方がいらっしゃって、やはりそこには「武士道」を感じた方が多かったのだろうと思ったのだった。

ジャンプでは「逃げ上手の若君」でもさまざまな中世的概念を一般的・歴史的な名称をあまり使わないようにして表現されており、こういう不毛な議論に巻き込まれないための工夫がいろいろなされているようには感じている。

(ちなみに白虎隊は、私が子供の頃初めて「自ら選ぶ死」というものを考えさせられたエピソードだった。子供向けの歴史マンガには、白虎隊の14・5歳の少年たちが鶴ヶ城から煙が上るのを見てもはやこれまでと思い、自刃した場面が描かれていた。そのイメージはあまりにも強く、自分もいざというときこのように死を選べるだろうかと何度も腹を切るシミュレーションまでしてしまったくらいだった。)

武士道について実際に述べているのは江戸時代では山鹿素行、幕末では山岡鉄舟、明治では新渡戸稲造がいて、この辺りは私自身としては研究不足なのでもう少し調べて考えてからまた書きたいと思う。

しかし「明治精神の構造」で書かれていることはかなり興味深いことだった。一般家庭に「武士道」が道徳として浸透したのは明治20年代であり、それまでの「家風」にとって変わった、というのだった。

日本の人口のうち「士族」は5%未満であったと言われているから、一般家庭は主に平民であり、武士なわけではない。しかしいわゆる武士道道徳が共有されるようになってきた、という指摘なわけである。

「武士道」が浸透した理由として一つは「教育勅語」つまり国家的政策、もうひとつが「国家社会を担う自律的な個人の気概や品性」の源流として「武士」と言うものが見直されたということにあるという。植木枝盛が「士族こそが公共的精神と国家的関心を持ち続け」、社会主義者も「身を殺して仁を為す」ことを理想としたと言っていると。

また社会主義者である堺利彦も「いわゆる武士道は依然として今後の紳士の生命たらざるべからず」とか言っていて、「武士的精神を持つものが社会を引っ張り、社会を変革できる」という信念はかなり共有されていたと考えていいということだろう。

「政治的・文化的リーダーシップを取るエリートとしての武士的人間」というのは広く共有されていたと考えられるし、また近年そういう概念を相対化し、脱神話化しようとする動きが強くなっているのはいまだに「脱封建化」が正しいと信じている人々がいるからだが、そのあたりの研究もうまく利用して武士的なものについて考えていければいいと思う。
一般に武士道のイメージとしてよく取り上げられるものに「葉隠」がある。中でも、「武士道とは死ぬこととみつけたり」という言葉が有名で、アニメ「ルパン三世」でも剣の名手・石川五ェ門が剣を振るうときに「武士道とは死ぬこととみつけたり」と言うので、このイメージが強い人も多いのではないかと思う。
しかし「葉隠」というのは実は江戸時代から有名であったわけではなく、当初は禁書となりながらも佐賀藩の中で徐々に浸透していった書物であり、大隈重信などは近代化の足枷になる古い道徳であるとひどく嫌っていたと言われている。これが公刊されたのは明治39年であり、有名になったのは昭和7年のことで、当時佐賀出身の軍人が命を捨てて戦うことが大きく感動をよんだ出来事があり(いわゆる爆弾三勇士など)、それで葉隠という書物が一躍有名になったのだという。(この辺りはWikipediaによる)

つまり、大東亜戦争の前哨戦の中で国民を高揚させるために取り上げられたという側面が強いようだ。これに関していわゆる「精神右翼」の人々がどういうふうに言っていたかなど、調べないとわからないことが多くてはっきりとはいえないが、「常に死を覚悟して生きよ」という主張が「命を捨てて戦え」に変換された部分はおそらくなくはないわけで、そのあたりは見直されるべき部分は大きいと思う。

「武士的精神」は日本的なリーダーシップのあり方として今なお多くの人々の心に生きているということは、「鬼滅の刃」の大ヒット、煉獄杏寿郎というキャラクターへの圧倒的な支持を見ても感じられる。また、日本の保守的な知識人たちが場合によって自死を選ぶケースが江藤淳や西部邁らに見られたことも、そうした武士的な精神の表れだと考えられる部分があるように思われる。

日本的な保守主義の要素としては、武士道はやはり重要であるように思われる。研究を続けたいと思う。









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