太政官制と内閣制度の違いから考える組織論/「公議・輿論」と保守主義の行くべき方向性について

Posted at 21/03/03

「明治史研究の最前線」を読んでいて思ったことなど。王政復古政変で太政官が成立してから、1885年の内閣制度の成立までの間の時期が「太政官制」の時代であり、「官」という言葉が政府を意味した。今でも官製ハガキなどの言葉にその名残が残っているが、一体太政官とはどういうものだったのか、というのは確かに言われてみるとよくわからなかった。

明治史研究の最前線 (筑摩選書)
小林和幸
筑摩書房
2020-02-28



太政官制とは、重要なことは全て太政官に上げ、太政官が各省に指令するという形態であり、内閣制度とは法令の運用に関しては大幅に確証に委ねるという制度であると、「明治史研究の最前線」にあり、なるほどと思った。

私が思ったことだけど、この二者の制度上の大きな違いは内閣制度には「参議」という存在がいなくなったことだなと思う。他の大臣が全てプロパーになってしまい、全てをまとめるのが総理大臣一人になったというのは結構大変なことだなとは思う。

結局一人ではやりきれないから総理大臣補佐官とか大統領補佐官みたいな人をおかざるを得ないのだと思うけど、そうなると地位的には「参議」よりはかなり落ちる。

会社なんかでも取締役はプロパーだけでなく副社長とか専務とか常務とか全体を見る役の人が他にいるわけだし、政府も参議的な人がいてもいい気はする。そこの権限の範囲の決め方が難しいわけだけど。

学校法人でも理事・理事会という存在があり、ヨーロッパ中世の都市でも市参事会というのがあった。プロパーでないまとめ役は複数あった方がいい感じはするけど、しかしプロパーを持たないと手足がないから権力に影響させられないという問題もあるのだよな。どういう権力構造がいいかは難しい。

各省にも結局「審議官」という全体を見る的な役職が作られるわけで、やはり全部をプロパーに分化させればいいというものでもないのだよな。「執行部」が今の内閣制度では総理大臣以外は全てプロパーの代表者になってるわけだが、昔は無任所大臣というのもいたなそういえば。

江戸幕府なんかはプロパーはもちろんあったが多くは案件ごとに担当者が決められてやってた感じがある。で、重要な案件は全部老中まで上げられて老中会議=幕閣で決定すると。

中国でも明の洪武帝のようなスーパー君主だとほとんど全部自分で仕切ったりするが、普通はそれは無理なので権限の委譲が進むわけだが、そうなると官僚制度お決まりの権限争いや案件タライ回しが始まる。万能の制度はないと言えばそうなのだが。

今の社会文化では「所属」をすごく重要視するわけだが、「職能」が決まっている人(研究者とか)はプロパーの専門家として組織を渡り歩くことができるが、ジェネラリストは所属する組織の組織文化に強く影響されるので、他の組織では通用しにくいということはあるのだな。組織文化というものも曲者だが、まあ組織も人間が作るものだから仕方ないと言えば仕方ない。

こういうのはマネジメントの方法論ということになるのだろうか。経営学か。行政だとどうなるんだろう。行政法学とかになるのだろうか。この辺りのところはどういう分野の学問で研究されていることなのか、勉強不足でわからない点が多い。

ただ、やはり組織のマネジメントというのは大きな問題だなと思う。歴史的にいろいろ見ていくと興味深いと思う。「藤原冬嗣」とか読んでて面白いのはそういうところもあるからだな。平安前期の「朝廷」という組織。

藤原冬嗣 (人物叢書)
達哉, 虎尾
吉川弘文館
2020-07-30

 

恐らくは担当を全部プロパーに分けるというのが合理主義的・設計主義的な発想なのだろう。律令制の二官八省とかからしてそうなんだが。しかし権力の中枢を作らないと組織がバラバラになるから令外官で参議とか中納言とかを設置したということなんだろう。

結局、大日本帝国憲法の制度的欠陥とされるのが内閣や枢密院、陸軍海軍などを「束ねる存在」が天皇一人しかいないということだった。絶対王政ならそれでもいいが日本のような国ではそこが国体に合っていなかったということなんだろう。摂関・参議という存在を発明した古代の人たちは偉かった。

制度の外、いわば令外官として「元老」がある程度機能してはいたけれども、西園寺公望の高齢化及びその死後はその職責が果たせなくなり、「内大臣・重臣」という形で重臣会議が開かれるようになるが、この重臣会議にしても戦時の御前会議にしても法制上の規定があるわけではないので、いわば超法規的な存在だったということになるだろう。

結局満州事変以後の戦争は軍部というプロパーの暴走という側面が強いのではないかと思う。それを掣肘できるのは理論上天皇しかいなかったが、立憲君主の在り方として政治や軍事に強い発言をすることの是非が田中義一辞任の際に恐らくは問題になり、なかなかはっきりした意思が示せなかったのだろう。天皇の意思としてはっきり記録に残っているのは二・二六事件の鎮圧の意思、大東亜戦争を終わらせたいわゆる「聖断」の二つだけだと言われるが、そのあたりは研究は進んでいるところはあるのだろうなと思う。

日本国憲法ではその反省に立って内閣総理大臣の権限を圧倒的に強くしている。ただ総理大臣が万機決裁することは不可能だから、総理大臣補佐官という存在がいるわけで、この部分で制度的不明朗性が出ている感はある。安倍さんはこの制度を割とうまく(正しくかどうかは別だが)使ってたが、菅さんは自分でやろうとし過ぎて失敗しているのではないだろうか。

「天皇親政」が成立したのは明治12年(1879)だと。この時期から天皇の裁可印が使われていると。1852年生まれだから27歳の時か。大久保暗殺、集団指導体制に移行し天皇の権威を必要としたということだろうか。

この辺りは、「公議・公論」の問題とも絡んでいるのだろうなと思う。太政官制の成立からそこに加わった天皇の親裁、それから内閣制度、帝国憲法への流れは「公議・公論」がどのような形で成立していくかの問題に関わる。

「公議」や「輿論」が多数派の意見というだけでなく「正しい意見・結論」という意味を持っているのは、それが形成されたらそれに向かって進むという意味で当然ながら主流派・非主流派を生み出すし、明治後半に社会主義が現れ、大正にロシア革命が起こり、思想の多様化が進むと公議輿論による非主流派への圧迫ということも起こるし、日本が今なお「同調圧力」が強い国とされることは(実際には日本だけではないと思うが)こうした輿論に反対する少数派が反対意見を言えるかという問題も出てくる。

日本の保守主義の原点は恐らくは「上下心を一つにして」という部分があると思うので、逆にいえばそこに対する批判にも十分答えられるある種の新しい思想が必要になってくる面はあるような気がする。ただそれ自体も、実際には過去を尋ねればいくらでも先例は出てくると思われるし、突飛で新奇な理屈よりも古きをたずねて新しきを知るのが保守のいくべき方向性だろうとは思う。

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