「南朝研究の最前線」を読了した。後南朝のこととか皇国史観のこととか。

Posted at 21/02/11

書きたいことが幾つかある、というか割とこういうのは集中してしまう傾向があるのだが、読んでいる本の終わりと始まりがいくつかあった。

昨日読み終えたのが、書籍では「南朝研究の最前線」(洋泉社歴史新書)、マンガでは「ボーイズ・ラン・ザ・ライオット」最終4巻、「マロニエ王国の七人の騎士」5巻。届いたので少し目を通した本が「ヒトラーとナチ・ドイツ」。雑誌では、別冊マガジンで「進撃の巨人」「アルスラーン戦記」の2度めを読み、週刊マガジンとヤングジャンプ、Dモーニングを読んだ。

今日は建国記念の日で旗日なので午後の仕事までは事務上の仕事などはないので少し気が楽。ただ普段ならもっと早い時間に片付けていることを、ゆっくりやったのでもう10時半になっている。実際、仕事が金を稼ぐための仕事だけならもっと余裕を持って楽しんでやれると改めて思ったが、なかなか状況を変えられずにいる。

今日は簡単に、「南朝研究の最前線」の昨日読んだところと、それについて思ったり考えたりしたことについて書いてみたいと思う。


 

「南朝研究の最前線」は昨日ラストまで読み、最後に「はじめに」の呉座勇一さんの文を読んだが、ラストまで読んでからだと趣旨がよくわかる。どなたの文章も、一般的な認識や研究史上の見方の変遷などを丁寧に書かれていて、なぜ今こういう「最前線」なのかということがとてもよくわかった。

昨日読んだのはほぼ第四部だったが、室町時代前期において「南朝」ないしは「後南朝」というものの持つ「旗印」としての意味の重さ、みたいなものがよくわかって面白かった。南朝の当事者たちもまた南朝を名目的に担ぎ出す人たちを必要としていたということなのだろう。逆に言えば、北朝は最終的に幕府足利氏に担がれることに成功したと言えるわけで、それは正中一統など、ある意味偶然ないしは南朝側の失策があってこその成功ともいえ、特に後光厳皇統と伏見宮皇統の対立の中、後南朝小倉宮が漁夫の利を得る可能性もなくはなかったように思われ、そのあたりの北朝の危機管理もまた大きい気がする。そこを考えると伏見宮貞成親王の存在が大きいのではないかと改めて思ったり。

あとは戦前の皇国史観がほぼ平泉澄と同一視されていることの問題も面白かった。「皇国史観」というのはいわば政府の公認の史観であり、平泉個人のものではない、という指摘は重要だと思った。平泉よりも弟子の平田俊春の方がより原理主義的な「天皇親政絶対論者」である、というのはなるほどと思ったし、私が小学生の頃に放課後の小学校の図書室で読み耽った子供向けの何巻もある歴史も基本的に平田の考えに沿って書かれたものだったと思うので、その辺は面白いなと思う。

できればその本をもう一度読んでみたいのだけど、今となっては書名も著者名もわからず、私が読んだ昭和46年ごろの時点ですでに本文も表紙も茶色くなっていたシリーズ本なので、探すのも難しいのが残念だ。

平泉の一般向けの日本通史は少し目を通したけれども、自分が読んでいたのはこういうものではなかったと思った。私が読んだ本は不思議に爽やかさがあって、胸の躍るものだった。この辺、史学史や出版史などを丁寧に追っていけば見つかるのだろうけど、なかなか時間ができないなと思った。

他の本については、余裕があったらまた書きたいと思う。

この本は文庫にもなっています。 

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