何気ない日常を守りたい:自分の政治・経済的スタンスとか「鬼滅の刃」とか

Posted at 21/01/19

自分の政治的スタンスや経済政策的なスタンスについて書こうと思って、しかしなぜそうなのかということを遡って考えたのだが、この時にこういう思想に出会ったからだとか、こういう本を読んでだんだんこういうふうに思うようになったとか書いてみても、どうもしっくりこない感じがあって、なかなか何を書くか、ということが定まらずにいて、昨日は自動書記みたいな感じで書いてみたのだが、まあちょっと思うところがあったような感じがする。

私の政治的スタンスは「保守」ということになると思うし、経済政策的なスタンスは「反緊縮・積極財政」、ケインズ政策ないしMMTにも期待、ということになる。政治的に反対するのはポリティカルコレクトを錦の御旗とする趨勢で、経済政策的には緊縮財政・均衡財政・リストラ至上主義・ネオリベラリズム・新古典派経済学ということになる。

それぞれについてはもちろんなぜそう考えるようになったのかという起源は言おうと思えば言えないことはないのだが、結局は「こういうことを知ったから」だけではなくて、「こういうことを知り、いろいろ考えているうちに、自分としてはこう考えよう」というようになっていったからであって、そのプロセスについてはもうあまりはっきり覚えていないということが多い。

だからそれぞれの自分の考えの正当性を主張するべき局面が来たらそれはそのように説明しようとは思うけど、実際の政治的・経済的局面は時事刻々変化しているわけで、そういう必要ができた時にその時の局面に合わせて主張しなければあまり意味がないので、とりあえず上記のようなスタンスだということだけ書いておきたいと思う。

それでは、どうしてそういうスタンスなのかということを、つまり、合理的・観念的な正しさはとりあえずおいておいて、自分自身の「内なる願い」というものとどう違和感なく接合しているかということを考えたとき、自分が何を願っていて何を実現したいと思っているのかということを考えてみると、「何気ない日常を守りたい」ということなんだろうと思った。

これはよく「生活保守主義」などと言われるけれども、多分そう言われるようなことなのだと思う。何気ない日常というのはなんだろうと考えてみると、もちろんそれは人によって違うものであるわけで、全ての人の全ての日常が滞りなく進んでいく社会などというものはもちろんそうあるわけではないし、非日常を求める人の気持ちというものもあるし自分の日常に満足できずにいる人たちも多いわけで、まあそんな簡単にまとめられるものでもないのだけど、「何気ない日常の大切さというものは失われた時にわかる」とはよく言われることだが、今のようなコロナ状況の元では強く感じる人は多いだろうと思う。

人はともかく、自分自身の「何気ない日常」とはどういうものなのか、というのを考えてみた時に、一つ浮かんだイメージがある。私は知らない駅で降りて知らない街をなんとなくぶらぶらしたりとかするのが好きなのだが、その時にそこから一番近い図書館を探して、そこまで歩いて街の様子を楽しみ、またその図書館に入ってそこに置いてある図書の品揃えを見たり、閲覧室の明るさとかそこで本を読んでいる人たちの様子、子どもの本のコーナーを見たり、そこでなされている工夫を知ったりして楽しんでいる、というのが私のイメージする「何気ない日常」の例だなと思ったのだった。

人によっては仕事が終わってから同僚や友達と飲み歩いたり、仕事が早上がりした時に赤提灯で明るいうちから飲み始めたりすることが日常のイメージかもしれないし、家族で大きな川の土手を散歩したりすることが日常かもしれない。私の日常のイメージは考えてみると本との関わりがかなり大きな部分を占めているので、図書館とか自宅の書棚とか大きな書店とか商店街の小さな書店とか、どうしてもそういうイメージが大きくなるのだが、その辺りは人によって当然違うだろう。

コロナ禍によってどんな人の日常もそれなりに損壊を受けていると思うのだけど、そうした日常そのものがここ20年〜30年くらいの間にかなり傷付けられて来ているということは私は感じていて、そうなってしまった経済情勢的な理由がネオリベラリズムによる財政の削減による公共サービスの縮小や、人々の自由時間を減らす労働過多の傾向、それでいながら給料は増えずまた雇用も不安定になって来ているということからくる将来への不安、と言ったものに対する不満ということが大きい。

「財政の無駄遣い」が喧伝された頃は、「無駄を省いてもサービスは守られる」という謳い文句で多くの人が「それなら無駄遣いは無くした方がいいだろう」と思ったけれども、結局のところその「無駄」で食べていた人たちの生活が削られ、サービスも著しく後退しているわけで、それらの説明が本当ではなかったことが今では明らかになって来ている。「無駄遣いをなくす」ということはあってもそれは守るべきものを守るために必要なことだと考えたから多くの人はそれを受け入れたのに、一部の人が異常な利益を上げ、大多数の人がその割を食うような状況が現出しているわけで、それは経済政策の方向性が間違っていたからだと言わざるを得ない。

経済成長を実現している多くの国ではリストラ至上主義だけではなく新しい産業の創出にも成功しているが、日本の場合はその将来への投資まで削る状況になっていて、ただのジリ貧状況になっている以上、経済政策を担ってきた経済官庁や経済を主導して来た経団連などの従来の主張に対しては厳しい目が向けられるのは当然だろうと思う。

もう一つは政治的な保守の主張だけれども、簡単に言えば「私は日本という国が好きだ」ということだと思う。だから歴史的な連続性というものを維持したい、守っていきたいという思いがある。もちろん、戦前のような地主小作制の社会に戻したいわけではないし軍国主義的なものが好きなわけではないけれども、その時代その時代に生きた人々が何を目指し何を大事にしていたかは考えていきたいと思うし、そうしたものが歴史を動かした力だとも思うから、そういうものに気をつけていきたいと思う。

特に日本のような社会は革命によって成立した国ではなく長い歴史を持っているので、設計主義的に社会を変えていこうという動きには賛成できない。漸進主義的な保守主義こそが日本の国柄に合っていると思うし、また私自身の身体感覚にも適合している、ように思うということなのだと思う。

また、移民を増やすことによって否応なく生まれる文化の多様性は日本のような自制的な国家においては国民統合を損なうものだと思う。文化の多少の変容はもちろん起こるべきことだが、ドラスティックな変化は避けるべきだと思う。

そういうことから、女性は主体的に生きるべきだと思うがフェミニズムの行き方には反対だし、伝統的なやり方を中心に自然環境を守るための工夫はしていけば良いと思うがエコロジズムには疑問が多いし、殺生を否定する仏教の思想は理解できてもヴィーガンの急進性は危険だと思うし、当然ながらネオリベラリズムの極端なメリトクラシー的な考え方も国民統合を損なうものだと思うし、清貧をよしとする思想が結果的に不安定な雇用・不安定な収入の中で日常を維持するのが難しい人への困難を助長していることは大きな問題だと思う。

「何気ない日常を守る」ことの大切さと、その困難さは、現在とても際立って来ている。そしてだからこそ、それを守るために命を賭ける「鬼滅の刃」や「呪術廻戦」、「僕のヒーローアカデミア」あるいは「進撃の巨人」のような作品群が多くの人の心に刺さるようになっているのだと思う。

自分の政治的・経済政策的スタンスと、自分の関心事への大きなつながりみたいなことについて考えてみた。それにしても80年台や90年台に言われていたような「終わりなき日常」というような日常観から、さても遥かなところに来たものだなあと思わざるを得ない。

なんとかしたいものである。

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