「鬼滅の刃」:鬼にされた禰豆子が人間に戻るための物語(1)

Posted at 20/12/12

「鬼滅の刃」:鬼にされた禰豆子が人間に戻るための物語(1)

ここのところ、「鬼滅の刃」について書いているけれども、まず炭治郎について、次に伊之助について書いた。ありがたいことに好評を得て、多くの方に読んでいただけたのだが、「次は禰豆子はどうですか」というリクエストがあった。私はこのマンガの中で禰豆子は一番の「推し」である。ファンというものは、推しは推しであるだけで十分なので、その推しがどういう存在なのかについてはあまり考えない。ただ可愛いと思うし、魅力的だと思う。可愛いとか魅力的だというのは感想とか愛というものであって批評ではない。だから書けるかなと思いながら、まずいろいろ考えてみた。

禰豆子は、この物語の中で最も伝奇的な存在だ。鬼舞辻無惨によって鬼にされ、兄である炭治郎は自分の全てをかけて禰豆子を人間に戻そうとする。この物語は、「禰豆子を人間に戻すための物語」である。おそらくは読者も、そう思ってこの物語を読み進めると思う。

しかし禰豆子にとってはどうだろうか。禰豆子は家族を殺され、鬼にされ、兄によって人間に戻してもらうのをただ待つだけのか弱い存在だろうか。

そうではないのである。ここにこの物語の特殊性がある。

悪意のある何者かによって人間から人間でない存在にされた人が、人間に戻してもらう。そういう物語は多い。一番典型的なのは「白雪姫」であって、魔女の毒林檎で眠らされ、百年経っても目覚めない白雪姫は、七人の小人に守られてただ眠り続ける。そして百年後、たまたまやってきた王子様に見染められ、キスをされて白雪姫は目覚め、二人は結婚する。めでたしめでたし。そういうストーリイである。

この物語はフェミニストによって攻撃され、女性が主体性なくただ救われるだけの物語であり政治的に間違っていると喧伝されている。その見方もどうかと思うが、少なくとも白雪姫がただ救われるのを待っているだけの存在であるのは確かであるように見える。本当は努力しているかもしれないが、それは描かれてはいない。

「鬼滅の刃」に対する批判はいろいろあるけれども、一つはこの作品をこの「白雪姫型の物語」とみたフェミニストからの攻撃なのだが、この見方は全く見当違いであり、とても作品をきちんと読んでいるとは思えない。眠り続ける白雪姫とは違い、禰豆子は戦っているのである。鬼にされても。

炭治郎にとって、そして多くの読者にとって、この物語は「禰豆子を人間に戻すための物語」である。

それでは、禰豆子にとって、これはどういう物語なのだろうか。それは、「鬼にされた禰豆子が人間に戻るための物語」なのである。

しかしここで重大な問題がある。「鬼にされた禰豆子」は自我を、ないしは主体性を持っているのだろうか。

実はこの物語の中では、それは巧妙に隠蔽されている。禰豆子は言葉を離さない。禰豆子が回想シーン以外で初めて言葉を話すのは15巻126話のラストシーンの、「お お おはよう」である。これはまさに奇跡であって、炭治郎の努力がついに報われたかと思われる場面である。

しかし、多くの鬼は言葉を話すのだ。禰豆子を鬼にした鬼の総帥である鬼舞辻無惨はもちろんのこと、第1巻第2話で最初に出会うお堂に救う人食い鬼が既に言葉を話す。那田蜘蛛山の鬼の中には言葉を話さない鬼もいるが、通常は強い鬼であればあるほど雄弁である。

鬼というものは何だろうか。私たちの中には、鬼のイメージがある。桃太郎で退治される鬼、泣いた赤鬼、地獄の鬼、人ならざるものであり、力が強く、凶暴である。この物語の中では胡蝶しのぶが屋根の上の場面で炭治郎に語る、「鬼は嘘ばかり言う、自分の保身のため。理性も無くし、剥き出しの本能のまま人を殺す。」という言葉が、この物語の中の鬼という存在に対しての最も的確な指摘だと思う。

つまり、この物語の中の鬼は生き物なのだ。そして、極めて人間に近い。もともと人間だったものが鬼にされたのだから当然なのだけど。だから「鬼であれば鬼を人間に戻す方法を知っているかもしれない」。これは第一話で冨岡義勇が炭治郎にいう台詞であるが、「妹を治す方法は鬼なら知っているかもしれない」。しかしこれは「かもしれない」である。実際はどうだろうか。しかし炭治郎はそのか細い糸を辿って、禰豆子を人間に戻す道を探り続ける。

後になってわかることだが、鬼の総帥である鬼舞辻無惨でさえも、それは知らない。というか興味がない。彼の関心は永遠に生き、太陽を克服して昼間でも外に出られることしかない。そしていつまでも鬼たちを支配し、人間たちを恐怖させたいだけなのである。

つまり、無残は何も知らない。鬼は何も知らない、というのが一つのこの話の暗いテーマであるとも言える。無惨は自分を鬼にした医者を殺してしまったため、どうやって自分が鬼になったのかも知らない。「青い彼岸花」というのは青い薔薇と同じく決して手に入らないものの象徴だが、それを千年の間、探し続けている。

これは、鬼が人に近いが人ではないことを指しているのだと思う。つまり、鬼の総帥以下鬼は全て、無明の世界の中にいるのだ。しかし、人間は本来そういう存在ではないはずだ。それもまた一つのこの話のテーマであるように思われる。

その一つの答えが示されるのが2巻第15話だ。鬼にされても無惨に逆らう唯一の存在、珠世との出会いである。珠世は鬼にされながら、鬼にされた人たちを救おうとする医師でもあり、鬼舞辻無惨を倒そうとしている存在である。その珠世は、「鬼を人に戻す方法はあります」という。しかし今はまだそれができない。治療法が確立できてないからである。珠世は炭治郎に二つの「お願い」をする。

一つは、禰豆子の血を調べさせて欲しいということ。珠世によると禰豆子は極めて特殊な状態であり、普通の鬼ならば間違いなく凶暴化する「2年間眠り続け人や獣の肉を食べない」状態でその症状がない。「この奇跡は今後の鍵となるでしょう」

つまり、現時点では「治療法はない」のである。しかし、研究者でもある珠世は「それはできる」と確信している。ジェンナーが「天然痘は予防できるかもしれない、いやできる」と考えている段階である。そしてそのためには、炭治郎と、そして禰豆子自身の協力が必要なのである。

「禰豆子を人間に戻せるかもしれない」。その可能性を聞いた炭治郎は禰豆子を見て涙ぐみ、鬼の爪を持った禰豆子の手に触る。

珠代のもう一つの願いは、できる限り鬼舞辻無惨の血が濃い、つまりより強力な鬼から血液を採取して欲しい、しかしそれは容易なことではない、その願いを聞いてくれるだろうか、と珠世はいう。禰豆子は差し出された炭治郎の手をぎゅっと握る。穏やかな顔をした炭治郎は、「それ以外に道がなければ俺はやります」という。「珠世さんが薬を作ってくれるなら、禰豆子だけじゃなく、もっとたくさんの人が助かりますよね?」と。珠世は炭治郎の暖かい心に触れ、「・・・そうね」と微笑む。

この場面は感動的なのだが、それだけではなく物語の方向性、希望の方向性をはっきりと指し示してくれるという点でも重要だ。「より強い鬼を倒す」ことが炭治郎の目標になる。そして、そのためには「強くならなければならない」。強くならなければならない動機が、「禰豆子を守るため」だけでなく、「禰豆子を人間に戻すため」だけでもなく、「鬼にされた多くの人を救うため」でもあることになり、物語の結構がより大きくなったわけである。

禰豆子に自我は、意思はあるのだろうか。隠蔽されているが、よく見れば気付くのである。珠世に難題を出された兄の手をぎゅっと握る妹は、「そうして欲しい」と言っているのである。

私が第一話を読んだ時に、一番違和感を感じたのは、鬼にされた禰豆子が禰豆子を殺そうとした義勇に立ち向かう炭治郎を義勇から守ろうとし、義勇に立ち向かっていく場面だった。鬼は人間を襲う存在だと言っているのに、その鬼が人間を守ろうとしている?それでは物語が破綻してしまう、と。

炭治郎は言う、「禰豆子は違うんだ。人を食ったりしない」。義勇は考える、そう言って鬼にされた家族に喰われたものがいた。鬼は人間を食べなければならない。今の状態は飢餓状態だ。なのに禰豆子は、炭治郎を食べようとはせず、むしろ守ろうとしている。「こいつらは何か違うのかもしれない」

義勇の力と技があれば、この時の禰豆子はひとたまりもなく倒されただろう。しかし何かを感じた義勇は禰豆子を殺すのをやめ、育手の鱗滝左近次を紹介する。

その鱗滝左近次は炭治郎に迫る。「妹が人を喰ったときお前はどうする」と。答えられない炭治郎の頬を強く張る左近次は、もしそうなったら妹を殺し、お前も腹を切る。しかしこれは絶対にあってはならない、という。儂の言ってることがわかるか、という左近次に炭治郎は力強く「はい!!」と答える。この物語で「あってはならないこと、もしそうなったらしなければならないこと」を育手である左近次は強く規定するのである。義勇と左近次によって炭治郎は道を与えられるわけだが、このことが如何に重いことか、物語が進むにつれて明らかになる。

(2)に続きます。

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