アメリカの政治家とポリコレというアポリア

Posted at 20/10/18

今日はどうも体調が悪くて、でもせっかくなのでと思ってドラッカーの「すでに起こった未来」を読んでいたのだが、アメリカの歴史や社会についてもっと知らないとなかなかピンとこないなとどうしても思ってしまうところが多く、やはりちょっと読んでいて疲れてしまった。

アメリカというものを成り立たせている原理のようなものが、政治的な解決能力をすごく重んじるものであり、二元論的立場に立つことなく、「理念と事物、理性と経験、論理と直観は同じように現実であり、同じように有効とされるべき」だとされるべきだ、という考えはすごくわかる気がした。そういうところが日本のネオリベには欠けているので、幼稚になるのだろうなと思ったり。

経済より社会が重要なのだ、というのはドラッカーの主張であるだけでなく、社会そのものが宗教的であり、宗教や教会の側が世俗的な政治に対し、厳格に分離を要求してできたのが合衆国社会だというのもなるほどと思った。進歩的なデモクラットたちは宗教を馬鹿にするが、彼らは彼らでまた彼らの信念を持たざるを得ず、それがポリコレやフェミニズムになっているのかなという気がする。ただそれは宗教ほど生活の規範とはならないから、壊れやすい状態になっているのだと思う。

アメリカは分裂状態だというけれども、もともとアメリカの指導者は極左から極右まで取り込む度量がなければならない、というのはそういう政治的手腕こそが最も道徳的な行為だということなのだなと思う。

トランプも民主党側もいかに過激に自己の主張を述べてもそれでアメリカを統一することはできない。アメリカの政治家がアメリカの政治家らしく振る舞うためには、ポリコレをもっと緩和しないとならないと思う、つまりポリコレを否定する人と全面的に肯定する人しかいないようでは統一が危なく、そこに危機感を持っている人は多いと思うのだが、なかなかそこを乗り越える知恵が出てこないのだろうなと思う。

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