気息を感じること

Posted at 20/09/17

数日前に買った関大徹「食えなんだら食うな」(ごま書房新社、2019)という本を読んでいる。

食えなんだら食うな
大徹, 関
ごま書房新社
2019-06-01



著者は禅僧で、今読んでいるのはその生い立ちの話なのだが、叔父の僧侶に騙されて入門した小僧時代、食うやくわずの中学時代を経て正式に雲水として小浜の発心寺に入ったところまで読んでいるのだが、雲水になるために最初の1週間は「旦過寮」というところでひたすら座禅をして過ごすのだそうだ。大正14年夏のことだ。このときに蝉の声がずーっと響き続ける中で座禅をし続けて、そのときの思い出を書いた部分が心に響いたので書いておきたい。

「セミが啼いていた。日中、お寺の木立ちにつかまった短命な生き物は、騒がしく啼きつづけていた。
 騒然と啼いている、と最初は聴いた。それが、実は、一定の気息のようなものがあり、それは大自然の気息と一体になっていると言ってもよく、一つの融けあった世界だと知って、私は私の気息もその蝉の無心に移しかえようとしたようである。この1週間、私にとって、蝉は師であり、仏であり、そして、私自身が蝉になった。」

蝉に限らず、私は音がするものがあまり好きではなくて、どうも気になってしまう方なのだが、このように考えれば面白いなと思った。蝉と一体化することで宇宙と一体化する、と言えばいいのか。こういうある種の悟り体験みたいなものは、昔からとても興味があるのだが、まあもちろんこれは序の口というか、最初の「見性」ですらない、ということのようだった。ただ、その方向に進んでいるということは確かだと老師にも認められたということのようだ。

まあ、上の階で子供が跳ねている音とか、工事現場の雑音とか、そういうものに気息を感じ宇宙と一体になれるようになったら、まあそういう音の悩みというものは無くなるだろうなあと思ったり。

ちょっと思ったことのメモ。

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