神社巡り:神社合祀の衝撃

Posted at 20/07/21

昨日は朝、山浦のほうに行こうと思って結局玉川の方に行ったのだが、今まで場所がよくわからなかった玉川小学校に行き着くことができてよかった。この小学校は敷地も広いしプールもあるしグランドも広いので、とても条件の良い学校だなと思う。私の祖父が、私の父が子どもの頃、つまり戦争中あたりだが、この小学校の教員をやっていたということもあり、一度きてみたいと思ったのだった。行けてよかった。

その後原村の方を回って帰ったのだが、相変わらず原村は道が分かりにくく、またカーナビの市街図の範囲から外れてしまうのでどの道が最良なのか選びにくい。やはり拡大された図だとここに行きたいというのもはっきりするので、市街図にちゃんと表示されるとありがたいのだが、といつも思う。

家に帰る途中で清水から赤羽根、四賀の山中に神社がいくつもあることがカーナビに表示されるのがいつも気になっていたので、朝食後に歩いて出かけてみることにした。清陵高校のところまでは道はわかるので、そこからは初めての道が多かったが、秋葉神社などかなりびっくりするような造形の神社でこれはすごいと思った。明治天皇に献上したという清水が湧いているが、これが清水町の名の由来だとのこと。目標にしていたのは大国神社だったのだが、ここは四賀なのか赤羽根なのかわかっていなかったのだけど、登り口の途中に赤羽根公民館があったので赤羽根だとわかった。山道を登って行ってみると小さな祠があり、いろいろ書かれた説明板があった。

ここは元々は赤羽根の鎮守だったのだが、明治39年の神社合祀令によって明治41年に下桑原村の村社である手長神社の境内に移転されたのだという。しかしこの場所に社殿は残されたため、その後も毎年10月に例祭が行われている、とあった。

神社合祀というものが明治の末期に行われ、南方熊楠らが反対運動を行った、ということは知識としては知っていたが、具体的な例としてこういうものを読むと衝撃を覚える。手長神社からここまでは歩いて30分近くはかかるだろう。集落の社として尊崇していた神社がそんなに離れたところに移転してしまうというのは、実際に歩いて来てみないとその意味がわからない。下桑原村は現在の諏訪市・旧上諏訪町の市街地の大部分を占めていたので、かなりよその場所という意識になってしまうように思う。

また、大国神社の現在の社殿は、嘉永二年に上桑原村の白狐稲荷が建て替えられていて、その古い社殿を移築したものなのだそうだ。白狐稲荷は上桑原村でもかなり下桑原に近く、また赤羽根は下桑原の端なので、距離的にもそう遠くない。しかしお稲荷様と大国主命では全然神様が違うのだが、そういうところは拘らないのだなと思ってそこはおかしかった。結構寄り道しながら歩いたせいか、1時間半ほどかかって家に戻ってきた。

今朝は4時前に目が覚めてしまったのでまず散歩に出た。昨日の神社巡りはかなり歩いたのでかなり汗をかき、体調的にもやはりこのくらいは歩いたほうがいいという実感があったので、朝少し歩くことにしたのだ。とはいえ家から上諏訪駅を往復したくらいで、30分くらいだろうか。最近東京に帰るのを控えているので駅には全然行かないから、ちょっと懐かしい感じがした。帰ってきて風呂に入り、ゴミを出してから車で出かけた。

歩くのもいいのだが、やはりドライブで山浦のほうに出かけるのは気分がスッキリするところがあり、今日は豊平の方まで行って帰ってきた。その後でちょっと茅野駅前の神社が二つ気になって、駅の駐車場に車を止めて東口の犬射原社と西口の大年社に行ってみた。位置としては昔の塚原村だと思うのだが、矢ヶ崎村との関係が深いようで、説明板にはどちらも御座石神社との関係が書かれていた。へえっと思ったのだが大年社が御座石神社と同じく御柱を建てないという話で、七年目に素朴な鳥居を建てるという「古風」を残していると書かれていた。やはりどこかの時期で何でもかんでも御柱を立てるようになった時期があるんだろうなと思った。

神社巡りも凝りだすと切りがないのだが、昨日今日で一番印象に残ったのは、神社合祀の衝撃という問題についてだった。

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by Luke Peterson

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