雨が続いている/自然エネルギーのようなものに対する信仰

Posted at 20/07/14

雨が降っている。少し肌寒くて、ストーブをつけている。雨は時々の晴れ間を挟みながら、ずっと降り続けている。梅雨とはいえ、こんなに長く雨が降り続けているのは、あまり記憶がない気がするが、記録的な豪雨になっているところもいくつもあり、地球の気候の変化に驚かされる。

日本だけでなく中国の長江流域でもかなりの洪水が起こっているようだし、インド洋方面と南シナ海からの湿った空気が日本に雨をもたらしているのだそうで、こういうのはアジア諸国の工業化と関係があるのかないのか、いずれにしても困っている人が多くいる。

時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ

これは源頼朝の私家集「金槐和歌集」に収められた一首だが、大雨が続くたびにこの歌を思い出す。雨が降らないのも困るが、降りすぎるのも困る。人は自然とともに生きているということを思い知らされる昨今である。

「諏訪の神様が気になるの」読了。諏訪の神様の神威はさまざまな形で歴史の中に示されてきているけれども、元々の諏訪の信仰の古層には「ミシャグジ」というものがあり、「御社宮司」と書かれる例が多いが「御左口時」などと書かれることもあり、普段は空(くう)にあり、儀式によって降ろしたり、昇げたりするものなのだが、これは自然のエネルギーのようなもので、神というよりは精霊に近いものと解釈されているらしい。「もののけ姫」に描かれた木霊のようなもののイメージもあり、巨石信仰、巨木信仰とも関わりがある感じがするが、特に巨大でなくても木や石がその依代のようなものとして信仰の対象になっているように思われる。

民話、神話、伝説、説話にも不思議な話はいろいろあるのだが、諏訪市に大和(おわ)、隣の下諏訪町に高木という地名があり、その起源説話として天下った建御名方命が「尾はどこにあるのか」と聞かれ「尾は高木にあり」と答えたという話があり、大和、高木という地名ができたのだという。高木は高木神、つまり高御産巣日命、と関係があると思うのだが、これは巨木信仰や「産霊(むすび)」、自然の生まれる、生み出す力のようなものと関係あると思われる。ここでもそういう自然のエネルギーのようなものが信仰対象だったのだなと思う。

こういう信仰、あるいはむしろ呪術的なものは日本の信仰の古層にはかなりあると思うのだが、古事記の冒頭、「天地初発」(あめつちはじめてひらけし)という言葉、つまりどこからともなく天地がこの世に現れた、というイメージがあり、何か先にエネルギーがあってそれがひとりでに形になって万物が生まれた、というイメージが私は好きだなと思う。

この対極にあるのが「神は最初に光あれと言われた」という旧約聖書の世界観で、こちらは絶対的な何かが先にあり、それが「創造した」という人格的なイメージだ。

最初から秩序がありそれが壊れて混沌が生まれたのか、混沌の中から秩序が生まれたのか、という話だけど、私は後者のイメージを大事にしたいなと思っている。多分それが「やまとだましい」「やまとごころ」のようなものと関係があると思うのだが、どこかで前者のイメージ、人為的な秩序での統制というのも必要な場面があり、それは「からごころ」ではあるかもしれないが、それと兼ね合わせていくことが多分大事なんだろうと思う。

「混沌をして語らしめる」という言葉があるけれども、その「語り」そのものが創造であるのだなと思う。

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