活字中毒とツイ廃/歴史異説と稗史クレンジング/内田裕也さんと毀誉褒貶/MMTと満鉄調査部/

Posted at 19/03/18

近頃はあまり見なくなったが(聞かなくなったわけでもないが)電車に乗ると本を開かずにはいられない人というのがいる。そういう人たちは半ば自虐的に「活字中毒」などと自らのことを呼ぶわけだが、私もご他聞に漏れず昔はかなりの活字中毒であったわけだが、最近は私を含めて電車に乗ったらまず本を出すのではなく、スマホを出す人が多い。私もiPhoneを出すことが多いのだが、iPhoneを出して何をやってるかと言えば、たいていの場合はツイッターを見ているわけである。そういう人を「ツイッター俳人」もとい「ツイッター廃人」などとこれも自虐的に呼ぶわけだが、これはおそらく活字中毒の一つの亜種、ないしは輪廻転生した形であるのだと思う。

昔はそれこそ電車に乗る用事があるならそのためにまず読む本を用意するところから(というかたいていの場合は読みかけの本があるわけだけど)始まったが、最近は本を持っていてもまずツイッターを見てしまう場合も多い。だからおそらく昔に比べると圧倒的に本を読む量は減っているのだが、それでも本棚の本は増えていく一方なので(私の場合はコミックスが月に数十冊の単位で増えてしまうこともあるのだが)活字中毒自体が寛解したわけではないわけだ。

昔は電車の中で本を読んでいて、ああ、これは内容が薄いなとか、もう飽きた、と思っても他に読むものがないから一応最後まで読んでたことが多いのだけど、最近では飽きたらすぐスマホを見てしまうのでなかなか最後まで読めなくなった、ということがある気がする。

あとは、昔は分からない言葉、知らない言葉があってもとりあえずは疑問はあとにして最後まで読んでから覚えていたら調べる、という感じだったけど、今では分からない言葉、知らない表現が出て来たらすぐグーグルで検索するようになっているので、途中で読書を中断する機会がすごく増えたということもある。昔はすぐ辞書を引く人は偉いなと思っていたが、今ではすぐググってしまうと逆に読書体験自体が中断して、下手をするとそれをきっかけに本を離れてウィキペディアを読みふけってしまうこともよくある。

つまり、本自体を読むよりウィキペディアを読んでる方が面白いということが実際によくあり、本当につまらない本を読み続けるのが難しくなった。

つまらないと言っても本当に内容に価値がないとは限らず、重要であるのに読みにくいから、あるいは自分には難しすぎるから読み進められないということもあるわけで、そこで中断してしまうのは惜しいという場合も多い。だからそこは何とか頑張らなきゃとは思う。

ただ、別の言葉で言えば所詮時間つぶしで読んでるのだとしたら、活字である必要はあまりなくなってきている。というのは、本というのは一冊である種の主張を読むことになるわけだけど、ツイッターなら140字で玉石混交とはいえいろいろな主張を読めるから、その分かなりキッチュではあるが濃い感じのリーディング体験になるわけだ。

実際のところ、ツイッターを見ていて「この本を読みたい、買いたい」と思うことも多いし実際に買ったり読んだりしているので、ツイッターと読書が対立的ということはないわけで、でもまあある種の望ましいバランスみたいなものはあるのだろうとは思う。本の書き手の側もツイッターは面白いのに、あるいはブログは面白いのに、著書の方は、みたいな人もいなくはないので、その辺は頑張ってほしいなとは思うのだが、もちろん著書を読むことでその人の日々のツイートの意味が全然深みを帯びて感じられるようになることもあるし、まあそういう意味で言えばツイッターという寄生木と巨大な書籍世界という古木、巨木のようなものとは共存共栄していると言えるのかもしれない。

まあ、宿り木の方が強くなりすぎて巨木がやや弱っているということもなくはないのだろうけど。

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最近、日本中世史の呉座先生やそのほかの歴史関係の人々が歴史の異説を書く人たちの言説に対してコメントする本やツイートをしていて、それに対していろいろ異論反論を書く人もあり、かまびすしいのだが、私は昔、松本清張が私費を投じていろいろな古文書を集め、それを読んで自分なりの異説を発表したものの、国史学界から全く無視されて「否定でもいいから何か言ってほしい」というようなことを書いていたのを読んだ覚えがあるので、呉座先生たちの活動のそのこと自体はいいと思うのだが、あまり峻烈にそういう説を否定するのも、ある種の「稗史(はいし)クレンジング」みたいな感じがあって、行き過ぎない方がいいと思う部分もある。聖徳太子関係などは特に民間信仰と結びついたそういう部分があるし、楠木正成の説話などについてもその人の、あるいはある集団のアイデンティティと関わっている場合もあり、「歴史的事実とは別の真実」が大事である場合もある。

ツイッターで民俗学者の王様ビスケット先生がそのような学者による浄化的傾向に警鐘を鳴らしていたが、それはそれですごくよくわかる部分はあるので、歴史学の方もあまりオッカムの刀を振り回し過ぎない方がいいとは思う。まあ歴史学者が指摘しなければ誰が指摘するんだというようなこともなくはないので一概には言い切れないことではあるし、そこにはポリコレとかマウンティングとか学問の存亡とか様々な要素が絡んできて一概に言い切れないことではあるのだけど。

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ツイッターを読んでて知ったのだが、日本のロックの元祖ともいえる内田裕也さんが亡くなった。内田さんは本当に日本のロックの最初期からの人で、さまざまな毀誉褒貶のある人ではあったが、樹木希林さんと結婚し、娘の内田也哉子さんが元木雅弘さんと結婚したこともあって、ロックや映画に限らない幅広い印象を持つようになったと思うけど、最近は白髪の長髪のグラサンで「ロケンロー」と言ってるおじいさんという印象が強くなっていた。もちろん内田さんはそんな単純な人ではないわけで、ツイッターで心理学者のラジ先生が書いていたがある時期までは東京でロックをやるということは裕也さんのコミュニティに属さないとやっていけないということでもあった、という面もあって、私も実際「裕也さん裕也さん」とことあるごとに言うその関係者と会ったこともあってなんかちょっと近づきがたい世界だなという印象を持ったこともあったけど、実際まだ経済規模が小さかったその世界において、そういう結束がなければ生きていけなかったという面も確かにあったのだと思う。

私がラジ先生のツイートを受けて「毀誉褒貶の激しい人だった」と書いたらラジ先生がRTして「自分も毀誉褒貶ある人でありたいラジね。」と書いていて「イカス」と思ってしまった。まあ、私はラジ先生のツイートをよくRTするのだけど向こうからRTされたことは記憶にないのでRTされたこと自体が光栄なのだが、「毀誉褒貶ある人でありたい」というのはかっこいいセリフだと思う。私の父はまあそんなに広くない世界ではあるが毀誉褒貶ある人だったのでまあ身近にいるとあれこれ思うこともあったのだけど、まあやはりそういう生き方について否定的に見てしまう面もあったので、それをズバッと肯定されるとちょっと世界が開けた感じになる。まあ人は生きている以上毀誉褒貶から全く無縁であることは無理なので、ちょっとそのこと自体を肯定的にとらえて生きてみるのもいいことではないかと思ったのだった。主張のはっきりした人、ぶれない人は必ず批判はあるわけだしね。まあその主張がいいか悪いかは別の問題であるとして。

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経済政策に関してリフレ派とか反緊縮派と言われる人たちがいて、私も少し前まではよくわからないながらも日本の財政再建は必要なんだろうなと思っていた方だったのだけど、栗原裕一郎さんや北田暁大さん、稲葉振一郎さんらの主張や本を読むようになってからは割とはっきりと反緊縮・反増税・反リストラ・雇用政策と賃金政策の強化が必要だと思うようになっていて、最近MMT(Modern Monetary Theory、現代金融理論)という言葉も知って、ツイッターで読んだ「独自の通貨を持つ国の政府は、通貨を限度なく発行できるため、デフォルト(債務不履行)に陥ることはなく、政府債務残高がどれだけ増加しても問題はない、という考え」が理論的根拠を持っているものだということを知った。

https://jp.reuters.com/article/mmt-japan-idJPKCN1QP072

まあこれには強い反対意見もあるようだからそれもはっきりと断言はできないにしても、ケインズが出てきたときには強い反発があったのと同じで、必要な時に出てきた必要な政策なのではないかという気はしている。

ただ、雇用・賃金政策にしても、例えば韓国は文在寅政権が最低賃金の引き上げを行い、そのために不況をもたらしたと批判されてることもあって、賃金を一律義務的にただ上げればいいというものではないとは思うが、経営者のマインドが賃金全体を出来るだけ低く抑えたいと強く働きすぎているとは思うから、その辺を緩和する理論がもっと出てきてほしいとは思う。

地方の企業が新卒者がみな東京に行ってしまうことを嘆いていて、賃金も福利厚生も東京より低いのだから仕方がないという批判について、「限界集落化している大学」の関係者がそれを言っても説得力がないという批判をツイッターで読んだのだけどこれはそうだよなあと思う部分があり、ただそれは大学の問題ということもないことはないけど国の、特に安倍政権の文教行政全体の問題でもあるのだよなあと思った。

大学が限界集落化しているのは学者のとしてのキャリアについての「改革」が行われる以前の人がいわゆる「逃げ切り」状態になっていてのほほんとしているのだけど、そのあとに学者になった人たちが任期付であるとか職がないと言った事態に巻き込まれて生きるための仕事に奔走せざるを得なくなり本来の研究がしにくくなっているという点に原因があるのだと思うし、それは電子書籍化が問題になってる出版界であるとか、そのほかの企業社会全体、あるいは年金問題も考えれば日本社会全治にその「逃げ切り」問題はあるわけで、逃げ切れる人たちが今後の日本の問題についての真剣な議論に十分向き合っていない、あるいは左翼の方々のようにあさっての方向に議論が走って行って若い人たちが直面している事態を理解しようとしないという問題なのだと思う。

いわゆるロスジェネ問題も最近はだいぶ取り上げられるようになっては来たけど、まだまだ十分に理解はされていないし対策はそれ以上に遅れていると思う。

高学歴者の失業問題というのは戦前からあったわけで、昭和恐慌の頃には「大学は出たけれど」という言葉が流行語になっていたように、職にあぶれた大卒の人はたくさんいた。階級社会であった戦前は、そうした大卒の人たちの中にも実家の裕福さにバッファされて高等遊民として生きていた人たちも結構いたわけだが。現代でもロスジェネ問題の深刻さに一番苛烈な対応をするのはロスジェネの成功者の人たちだなという印象はあるが、なかなか社会的な政策が打ちにくいのもその辺にあるんだろうとも思う。

最近読んだ中で解決策としてあるのかなと思ったのは、戦前のそういう高学歴失業者が吸収されていた機関の一つに「満鉄調査部」があったという指摘で、これはちょっとひざを打った。

確かに、人文系や社会科学系の研究者になれなかったが大学院で研究者としてのトレーニングを積んだ人が職にあぶれているというのは大学や学問にいけ好かないという思いを持っている人たちにとってはいい気味だと思う部分もあるようには思うが、よく考えてみたらとてももったいない話で、「満鉄調査部」のような国策調査機関にはかなりうってつけの人材なんじゃないかと思う。今の日本ではそういう調査機関は国力に比してかなり貧弱なように思うし、そういう人たちがそれに吸収されて日本にとって必要な調査が十分に行えるようになったら、まあそれを生かす力を日本の政治や行政がちゃんと持てるかという問題はあるにしても、かなり意義深いことだと思う。

『人文系の勉強をして何の役に立つのか』という嘲笑があるけれども、そんなものはあるに決まっているわけで、学問の側が「すぐに役に立たないことをやることに意味がある」とか斜に構えるのもディオゲネスじゃあるまいしあまりよくないと思う。実際に使いようによってはすごく意味があるし昔は浮世離れの典型的な存在だった数学者をグーグルが凄い勢いで採用していることからもわかるように、きちんと目をつけることが出来さえすれば日本の既存の凄い厚みを持った学問集団は絶対活かしどころがあると思う。

それにつけても安倍政権の、あるいは今に至る大学改革の流れはそうした日本が営々と積み上げてきた学問の厚みをあまりに粗末に扱っているわけで、その辺は本当に方向性を変えるべきだと思う。資金を奪う方が学者がやる気になる、とかいう財務省の発想は世界的に共感する人は多いとは思えない、というかアメリカでも中国でも莫大なお金を学問領域につぎ込んでいるわけで、日本が本来持っていたアドバンテージが相当脅かされている。そう言う妙な思想を持つ人たちが日本を仕切っているというところに根本的な問題点があるという点では、財政再建派が持つ問題が日本の学問を脅かし、大学の限界集落化をもたらしていると言っていいのではないかと思う。

***

昨日は書いたように中央線のトラブルの影響で一日棒に振った感じになったせいか、夜は9時前には寝てしまったので、朝は5時台に起きていろいろやってから風呂に入っていたらどんどん書くことを思いついたのでとても長文になった。論点が多岐に、というかいろいろな話を一つのエントリにせざるを得ないのだが、それももったいないので後でちょっと切り分けて改めてアップするかもしれない。

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