「ラ・ラ・ランド La La Land」感想続き。(2)志と愛の映画。

Posted at 17/03/13

Ost: La La Land
Original Soundtrack
Interscope Records
2016-12-16


「ラ・ラ・ランド」感想続き。

この映画、書きたいことがたくさんあるのとどういう角度で書けばいいかがいろいろあって、短い時間の中でそれを全部書くのは難しいだろうということもあって、どうも思い通りに書けないのだが、でもブログってそういうもんだと思いながら書いた方がいいという気もして、とにかく書いてみようと思う。

これ、さっきの感想にも書いたんだけど、映画好きのための映画、という側面が結構あると思う。ロサンゼルス名所案内みたいなところからとにかく愛のシーンでは踊る、というインド映画的な感じもあるし、まあミュージカルってそういうものだと言えばそうだけど、そこらへんのところが「Funny Face」を思い出さされて仕方なかった。

Funny Faceはヘプバーンが本当にシンデレラガールで、本人の努力とかが描かれてないところが50年代的なんだけど、その分コメディ感が強かった。今はもう同じものは作れないけど、ミアの努力が描かれてるところが現代ではあるし、やっぱりそこにリアリティがある。でもキスシーン以上の濡れ場は無いとか、最近のハリウッド映画の方向性に逆らってるところもあるわけで、そういうところがわりとすっきりしていてよかったと思う。

ハリウッド映画、やはり興行成績を稼がなくてはいけないし、その分大衆に迎合する的な側面はあるわけだから、そういうものはあまり見たい気がしなくてあまり見てなかったのだけど、昔見た映画で言えば「ナイン・ハーフ」とか侮れない映画もあって、でも今回の作品は思いっきり映画や音楽や演劇に対するオマージュで、そういうものもちゃんとハリウッドで撮ることが出来るんだと言うことが凄く斬新な感じがして、久しぶりにハリウッド映画の力を感じたし、またこういう映画を見てみたいなという期待も感じた。という点で、自分の中では結構大事な印象を持つことが出来た。

夢を追いかけてでも現実とも戦わなくてはいけなくて、つまりこの映画はハリウッドの映画人たちの自画像みたいな映画なので、そんなものをおろそかに撮ることは考えられないよな、とは思う。やはり主演のエマ・ストーンの存在感が全ての場面をつなぎあわせていたこともまた確かだなと思うけど。でもまあ、そういう自画像みたいな映画だから、トランプ政権成立と言う状況下において、そういう映画に「アカデミー賞」を授けることは出来ない、というような力学もまた働いた気がする。ああいうドタバタになった裏には、そういう授与側の葛藤みたいなものがあったんじゃないかと想像してしまうんだよね。

ハリウッドはララランドであって、でもララランドはハリウッドだけじゃない。諫山創さんも「自分のようなララランドの住人は」と書いてたけど、映画にしろ音楽にしろ演劇にしろあるいはマンガにしろ、そういうものを作り出す志を持って格闘し続けている人は、皆ララランドの住人だし、もっと大きな視点から言えば、理想に向かって現実と戦っている人たちはみんなララランドの住人だと言えるかもしれない。

そういうララランドの住人にとっては、この映画は心を揺さぶられないではいられないところがある。

お互いの夢を尊重しあい、お互いを尊敬しあってそれぞれの道を打開して行こうとする二人が、お互いがなかなか志を得られないことに焦り、自分の志を曲げてしまったり、あるいは無意識かもしれないが相手の志を曲げようとしてしまったりする。それは決してお互いを尊重しないからではなく、愛を守ろうとするからなのだけど、でもそこで確実に二人の間にずれが、あるいは溝が、そして亀裂が生まれ、二人は追い込まれて行く。

それはとても普遍的なことで、だからある意味誰にも通じることで、志を持ち、それを実現することの困難さを知っている人には、共感せざるを得ない作品だと思うし、逆にそうでない人に取っては何がテーマになっているのかもピンと来ない、そういう作品かもしれないと思った。

あの夢と現実の狭間で耐えられなくなって破局して行く、あの辺りを本当に人ごとじゃないと思う人はたくさんいるんじゃないかな。この映画では結局二人の仲は壊れたけど、お互いの夢は叶えた、というところがまた泣かせる。いや、泣くしかない。

印象に残る場面はたくさんあげられる、と言うか一つひとつの場面がこんなに印象に残っている映画も最近内気がするけど、一つあげるとすると、セブが「本格的なジャズの店を開く」という夢よりも「まずは売れる」ということを目指して友人とバンドを始め、それが大受けして売れっ子になるのだけど、そのライブに行ったミアが音楽を聴いて戸惑いを感じ、その音楽がセブのやりたいものでないことを知っているミアの顔がどんどん曇って行く、曲が進むに連れてどんどん周りは盛り上がって行くのにミアの顔がどんどんシリアスになって行く、あの場面は本当に見ていて背中に冷たいものが走った。

この映画は本当に純粋に「志」の映画で、そういうものがハリウッドで作れるんだということに感動。そう、「志と愛は両立し難し」、という普遍的なテーマ。

ミュージカル映画の定番シネマスコープで描く、志ゆえの愛の破局の物語。ダンスや歌の場面のはさみ方も、かなり新しさを感じた。

ラストに延々と「もし二人の愛が成就していたらという「起こらなかった未来」が延々と描写されているところは本当に泣けて来る。ミアにとっての最大のチャンスが、決定的に二人を遠ざけ、別の道を歩ませることになる。

本当のラストは、二つの映画を思い出させた。「第三の男」と「君の名は。」「第三の男」で最も印象的なシーンは、ラストシーンでアリダ・バリがジョゼフ・コットンに一瞥も与えずに去って行く場面だが、この映画ではラストで二人はお互いに視線をかわし、微笑んで別れる。この場面で救われもするし、また切なさも募るわけだけど、これは合えないまま終わってもおかしくなかった「君の名は。」の瀧と三葉がラストで現実に出会い、ここから愛が始まりそうな場面で終わることと重なった。

「ラ・ラ・ランド」も「君の名は。」も2016年の作品。すれ違いよりも、出会えることの方がリアルに感じられる時代、なのかもしれないと思った。

志と愛の映画。そんなふうに私は感じた。「La La Land」、良かったなあ!

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by Luke Peterson

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