私と「史記」と「キングダム」と

Posted at 16/02/09

この文章は、昨日書いた「キングダム全41巻を三日で読んだ」の続き、あるいは蛇足です。

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私が初めて司馬遷の「史記」を読んだのは、小学校6年生のときだった。

学校の図書館の、ガラス戸のついた教師用の書棚に、(一学年一クラスの小さな学校の小さな図書室だった)漢文で書かれた「史記」があって、図書室の自分の読みたいめぼしい本を読み切ってしまった私は、「中国のほんまものの歴史が書かれた本」というくらいの認識でページをめくってみたのだ。

当時の私はませガキで、と言っても知的に、という意味だけど、子どもの読む本に飽き足りず大人の読む本に次々と手を出していたので(なぜか法律相談の本とかも読んでしまい、「肉体関係を持ったのにオトコに捨てられたがどうしたらいいか」なんて相談を読んで「いけない世界」を意識してしまったり、モーパッサンの「女の一生」を読んで子ども向け小説とのあまりの落差に脳天をぶん殴られた気持ちになったりしていたのだが)、漢文のレ点の仕組みとかも分からないままにパズルのように読みこなし、意味は分からなくても声に出しては読める、みたいな感じになっていた。

とはいえ、最初の「五帝本紀」から読み出したから意味が分からなく、そんなに深入りは出来なかったが、それでも「読める!」という手応えを感じたものだった。

子どもの頃すでに横山光輝「三国志」の連載も始まっていたし、子ども向けだが「西遊記」や「水滸伝」も読み、何となく中国古代の世界には親しみがあった。国の名前が「漢」とか「唐」とか漢字一文字であるのも面白く、関羽とか苗字も名前も一字というのもなんか奇妙に好きだった。「う」なんて名前があるということ自体、子どもには面白くて仕方なかったんだろう。

しかしその後は、そんなに深入りしたわけではない。それでも中国史関係の本は100冊くらいは持っているけど、全部を読み切ってるわけではないし、いま本棚を見たらちくま学芸文庫の「史記」を1、4、5、6巻と持っていた。実は今日、「キングダム」のエピソードのどこからどこまでが史実なのか気になる部分が沢山あって本を見に行っていたのだけど、結局買わなかった。買わなくて正解だった。持ってること自体忘れてたけど。

大学生になると、中国史に関する関心も物語的なものよりももっと大枠的なものに移って行った。だから、ストーリーになるようなエピソードすべてに触れたわけではない。諸星大二郎「西遊妖猿伝」、横山光輝「三国志」「殷周伝説」「史記」、鄭問「東周英雄伝」などのマンガ作品や、司馬遼太郎「項羽と劉邦」などは読んだが、そうした作品で扱われなかったものにはあまり関わりを持たずに来た。

そんな状態で今回一気に「キングダム」を読み切ったのだが、だからエピソード的には新鮮なものが多かった。特に「信」が大きく成長する節目になった12巻ラスト、16巻ラストの王騎の死、30巻のヒョウ公の死、「政」が英雄的な王として振る舞うサイの攻防戦、そして加冠とロウアイの反乱が描かれた40巻と、それぞれどこも凄かったのだが、特に40巻のロウアイの反乱の顛末が、私の知っているキャラクターの性格とは全く違う色づけがなされていて、ここは作家の力に戦慄せざるを得なかった。

この作品で、印象に残る巻はいくつもあり、王騎の死の16巻、ヒョウ公の死の30巻、政がついに呂不韋との争いに勝つ40巻などで、私ももちろんそのどの巻も好きなのだが、特に自分として印象に残るのが、一つは12巻だ。この巻で王騎は信の百人隊に「飛信隊」という名を与える。これはこのさき信の代名詞となって行くわけで、重要なエポックだと思うし、この巻で王騎に与えられた馮忌を仕留めるという無理難題をやってのける、その長足の進歩がとても印象に残って、私はこの巻が神巻だと思った。

あとは、16巻の、王騎と同じ騎馬に乗り、瀕死の王騎から「これが将軍の見る景色です」といわれる場面。将軍とは何か、を身を以て教えられる。遺志を受け渡す、という王騎の強い意志が、とても好きだ。

でも一番印象に残るのは、31巻から33巻のサイでの攻防戦。ヒョウ公が戦死しぼろぼろになってサイにたどりついた信たちを、王である政が迎える場面はもう何度読んでも最高だ。どんなことがあってもくじけない信が、政の肩を借りて泣く。物語だからこそ描ける二人の友情。そして市民たちを鼓舞してついにこの城を守り抜く政の王としてのカリスマの凄さもいちいちびんびん来る。そして呂不韋一派であった秦軍総司令官の昌平君がそんな政の意志に動かされ、呂不韋一派の利益よりも秦国全体の利益を優先して指揮官たちを派遣する展開も感動的だった。

古代中国史というのは、小説や作品にするエピソードの宝庫だ。特に、乱世である春秋戦国時代にはそうしたエピソードは多い。本来歴史書である司馬遷の「史記」が、特に列伝部分はそれだけで文学のジャンルでも取り上げられている。

しかし、「キングダム」の凄いところは、断片的に描かれた史記の記述を拾い集めて、巨大なカリスマを持った人物や壮大なストーリーを作り上げるところであり、またよく知られた人物やよく知られたエピソードに、「こんな描き方があったのか」と心底感動させられるところにある。

いずれにしても、こうした史書を徹底的に読みこなしていなければ出て来ないもので、それにマンガとして必要なものがミックスされ、物語の先にあるものを見せてくれている。

サイの攻防戦に始皇帝が出御したというのが史実なのか、ということを昨日は一生懸命調べたのだけど、どうもそれ自体はあったとは史書には書かれていない様だ。

しかし、そんな関心を持って一歩踏み込んで調べて行くことで、疎遠になっていたこの世界にまた一歩近づくことが出来た。

本当の作品というのは、人を動かし、世界を動かして行く力を持つものだろう。

「キングダム」はすでに自分にとってはそうだけど、世界に取ってもそうなる力を持ち得るのかもしれない。呂不韋と政の問答などはその萌芽がみられる。

この先の自分にとっても、一緒に歩んで行くだろう作品に、「キングダム」はなった。

それはとても幸福なことだろうと思うし、そう思う人がどんどん増えることで、作品にとっても幸福であってくれれば嬉しいと思う。

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