教養に対する信仰

Posted at 14/06/07

最近、面白い個人ブログをあまり見なくなったなあという気がする。なぜなんだろうか。

面白いブログの書き手だった人たちは今も現役でブログなどで文章を書いてはいるのだけど、それでもなんというか、昔の面白さが感じられないことが多いし、また、新しい面白い書き手というのがなかなか出て来なくなっている気がする。

それは、私自身が面白いと感じる文章というのが、ある種の世代的なもの、ある世代の教養みたいなものを前提にしているものが多いということかもしれない。

もはやその前提となる教養というものが、ある種の全体性を失っているから、もうあまりそういう教養に拘泥しても仕方がない、ということになってるのかもしれないなと思う。

それはつまり、私たちが教養と読んでいた何かが、本質的に変質を始めているのかもしれないということでもあるし、あるいは私たちがそれを「大事なもの」だと思っていた頃にはすでにもう変質してしまっていたのかもしれない。

教養、というのは、金を稼ぐとかおばあちゃんの知恵袋的に生存に役に立つということではないけれども、生きるのに必須のものだ、という意識は私たちにはあった、のだと思う。生きるのに必須、というよりは、「人が人であるために必要」というものだ、と言ってもいいかもしれない。教養なしにも人は生きられるかもしれないが、もはや人ではない、くらいに私たちは教養のことを考えていた、と思う。

しかし今私たちは教養に、そういうものを期待しているだろうか。ビジネスマナーとか、人と交流するためのネタとか、人の人品を測るための道具とか、そういうもの以上のものとして、教養を考えているだろうか、と思う。

つまり私たちは、「教養を持つことによって人は人になる」という信仰を持っていたのだ、と言ってもいいだろうと思う。

そして、私たちは今でも、その信仰を持っているのだろうか?

神は死んだのではないか?

ネット上に文章を書いていて思っていたのは、年々同じ言葉が通じる人が少なくなっている、ということだった。だんだん違う言葉で話す人が増えて来た、と。

これは、私たちが自分より上の世代に感じていたことと本質的には同じことだろう。彼らと自分たちとは、使う言葉が違うのだ、と私たちも思っていた。例えば小林秀雄の世代と、全共闘世代と、私たちの世代では、やはり言葉は違っていたと思う。

しかしそれらを貫いて共通言語があるとしたら、それは一応は古典として生き残って来たものたちに対するそれぞれの世代なりの尊重の念だったのだと思う。

私たちの世代はまあ、脱構築ちゃらなんちゃら言う世代だったから、そういうものを相対化し無効化して喜んでいる人たちがたくさんいたわけだけど、それに変わる新しいものって出て来たかと言うと、なんだか不毛な砂漠のような感じになっている。

何でだろう。

生きるために必要なもの、というのは、そういう意味で身体化したものだ、と言えるのだと思うけれども、それはつまり文字通り「身に付いている」というものだろう。

今の若者は、私たちの世代に比べて、お金をかけて育てられ、つまり私たちに比べて遥かに高スペックなものを持っている人たちが多い、という指摘をどこかで読んだけど、まさにその通りだと思う。彼らは「役に立つ」ということにかけてはものすごく役に立つ人たちが多いように感じる。正直、センスも優れているし、語学力なんか雲泥の差だ。企業なんかもひょいひょいやる人が多いし、どんなことでも軽々とやって行ってしまう人が多いような感じがする。

そして我々の世代は、そういう役に立つ人たちに囲まれて、さぞかし便利で快い時代になった、と感じるかと言うと、さてどうなんだろうか。

なんかが足りない、と思ってしまう。

つまり世の中に、「役に立たなさ」が足りない、と思ってしまうからなんだろうと思う。

世の中には、役に立たないけど必要なものがある、と私たちは思っているからだ。

それがつまり、さっき書いたことで言えば、「教養に対する信仰」なんだろう。

役に立たないルール、意味のない障害、そんなものは世の中に山ほどあるが、そんなくだらないものと戦って行く武器が多分、教養というものなのだ。

若くて優秀な人たちは、そんなくだらないものは世の中から排除すべきだ、と思っていて、基本的にはそれに反対するいわれはあんまりない。もはや誰も、なぜそうなっているのか分からないルールが世の中には山ほどあって、それはそれが生まれたときの歴史的経緯によってしか理解できないが、しかしそれが生まれたときにはその当時の人には呑み込めた身体感覚がもはや現代の人間にはない。

だから、そんな理不尽なルールを拒絶するのは当然すぎるほど当然なのだが、しかし世の中にはそういうものが当然のような顔をしてでんと構えている。

とにかくそれにぶち当たって、何とか取っ組み合いをしなければ生き残れない。

教養というものは因襲なのではなく、因襲を崩すための武器としてあった。

しかし今では、そういう武器は無効化して来ている。それはつまり、守る側も攻める側も同じ教養を共有しているからこそ出来たことで、もはや「そういう時代」ではなくなっているからだろう。

ブログの文章も同じだ。「当然の前提」を共有している人どうしでしか、その「当然の前提」の範囲内の話は通じない。

しかし世の中に、その当然の前提がある、という認識自体がやたらと希薄になって来ている、ということはあるんだろうと思う。

それを、信仰が打破されたとプラスの意味に解釈する人もまだまだ多いだろうけど、自分の言ってることが通じない、と言う状況がどんどん広がって行く状態というのは、果たして幸せな状態なんだろうか?

私自身、最近はマンガやアニメのブログばかり書いてて、他のテーマについて書く気がほとんど起こらない。まあ、マンガについて書く気になるのはマンガは面白いからなのだけど、だから逆に「オデュッセイア」だの「ローマ帝国衰亡史」だのを読んで筋をまとめつつ感想を書いて行けばいいのかもしれないとも思う。大学の全学一般ゼミナールであれだけ細かく「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読んだのだから、同じことをランダムに読む気になるものに対して施してみたってかまわないだろう。

しかしそれで教養が再生するかと言うとそうでもないだろうし、そもそも教養というものが再生すべきものなのかどうかも良くわからない。

マンガやアニメが面白いのは、やはり今までのものを踏まえつつ、今までにない新しいもの、新しいやり方、新しい表現にトライして行っているところにあるわけで、そういうワクワク感がなければ、新しい教養のようなものを再構築して行くことは出来ないだろう。

しかしまあそこはまだ残念ながら、狭い世界なんだよな…

とまあ、そんなふうに思うくらいには、私はまだ教養に対する信仰を持っている。

やはり教養というものが自分が生きるために必要なものである、という位置づけは、死ぬまで変わらないだろう。

そしてそれを多分、幸せなものとして感じているのだけど、それはまあつまり、信仰を持つものの幸福、というものなのだろうなと思う。

実際のところ。

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